すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1. 高ぶる者は低くされる

・箴言25-29章はユダ王国ヒゼキヤ王(前715〜687年)が書記や教師たちに命じて集めさせた格言集と言われている。ヒゼキヤ王は預言者イザヤと協力してアッシリアから国を護った王で、「主の前に正しいことをした」(歴代誌下31:20)と評される王であった。
-箴言25:1-2「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。ことを隠すのは神の誉れ、ことを極めるのは王の誉れ」。
・格言は神の不思議さと王の心の極めがたきことを語る。そして銀から不純物を取り去るように、王の前から邪悪な者を取り除けと勧める。
-箴言25:3-5「天の高さと地の深さ、そして王の心の極め難さ。銀から不純物を除け。そうすれば細工人は器を作ることができる。王の前から逆らう者を除け。そうすれば王位は正しく継承される」。
・次に王の前での振る舞いについて若者に謙虚であれと諭される。
-箴言25:6-7「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」。
・この格言を引用して、イエスは神の国の喩えを語られた。「婚礼に招待されたら、上席に着いてはならない。むしろ末席に行って座りなさい」という教訓は、実際の社会生活で賢明に振る舞うために有益な教訓だ。しかし、イエスはここで「神の国の招きを受けた者は、自分の価値を言い立てて上席に座るような姿勢ではなく、価値のない者として末席につく姿勢で、その招きを受けなければならない」と言われる。律法を順守したことを誇り、その功績によって神の国に入る資格があるとするファリサイ派への批判がここにある。「どの席に着くかは、招いた方が決めることで、そこには自分の義を誇る者は入ることができず、ただ自分を無とする者だけが入る」とイエスは語られた。箴言の新しい解釈がここにある。
-ルカ14:7-11「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らに喩えを話された。『婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、この方に席を譲ってくださいと言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、さあ、もっと上席に進んでくださいと言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」。

2. 時宜にかなって語られる言葉は金のりんご

・11−14節は言葉に関する格言である。時宜にかなう言葉は人を活かすと語られる。
-箴言25:11-14「時宜にかなって語られる言葉は、銀細工に付けられた金のりんご。聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは、金の輪、純金の飾り。忠実な使者は遣わす人にとって、刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。雨雲が垂れこめ風が吹くのに雨が降らない。与えもしない贈り物について吹聴する人」。
・コヘレトは全てにふさわしい時があると語る。「神はすべてを時宜にかなうように造られた」と。
-伝道の書3:1-11「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時・・・わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。
・「時宜にかなって語られる言葉」は人を慰めるが、逆に「苦しむ心に向かって歌を歌う」者は人を傷つける。
-箴言25:20(口語訳)「心の痛める人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、また傷の上に酢を注ぐようだ」。
・ギデオン協会HPに掲載されている証しを読むと、多くの人は学生時代に聖書配布を受けるが本棚にしまったままで、ある時それを思い出し、聖書を読み始めたという事例が多い。読むのにはふさわしい時が必要なのだろう。
-ギデオン協会HPから「初めて聖書を手にしたのは、高校生の時で、生徒全員に配布されたのです。何とも言えない嬉しさと温かさを感じたことが忘れられません。でも熱心に読んだ記憶はなく、そのまま机の引出しに入れておりました。就職して人間関係の厳しさを味わい、苦しい日々を送っていた時、かつて頂いた聖書を思い出し、引出しから見えるところに移しました。ページをめくりながら、あまり意味も分かりませんでしたが、心が慰められているのを感じました。同じ悩みを持つ高校時代の友人と出会い、一緒に教会に導かれました・・・説教はよく分かりませんでしたが、訳もなく涙が出てとまりませんでした。半年後、洗礼の恵みに与りました」。

3. 敵が飢えていたら食べさせよ

・箴言25:21-22は有名な言葉だ。「敵が飢えていたら彼にパンを与えよ」、自分が何をしたいかではなく、神が何を求めておられるかを考えた時に出る行動だ。
-箴言25:21-22「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる」。
・出エジプト記にも同じような言葉がある。信仰は行為をもたらすのだ。
-出エジプト記23:5「もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」。
・これらの言葉はパウロがローマ書に引用したことで、より多くの人に愛唱されるようになった。「敵に対する最良の報復は敵に親切を尽くすことだ」とパウロは語る。
-ローマ12:17-21「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・曽野綾子の小説に「燃えさかる薪」がある。シンガポールに暮らす主人公亜季子は、浮気を重ねる夫との生活に嫌気がさし、離婚を告げ、日本に住む新しい恋人との新生活に臨む。そんなある日、前の夫が爆発事故のせいで大火傷を負ったとの知らせが届く。今、彼の周りには、彼を世話する人は誰もいない。彼女は仕方なく、シンガポールに戻って夫の看病をし、彼が癒しの奇跡を求めて聖地ルルドに行きたいと言えば、付き添ってフランスへ行く。ある機会に彼女はローマ12章の言葉に触れる。そして「自分を裏切り、ひどい目にあわせ、今は助ける人もなくなった前夫に、自分の生涯を捧げることが自分の生きる道である」ことを知り、新しい生活を断念してシンガポールに戻る。
-あるクリスチャン女性コメント「怒りにまかせて相手を呪う。うまくいかないことに対する他人の責任を追及する。そのときだけ気は晴れるが、本当の満足が得られない理由がわかったような気がした。夫との関係は何よりそうだ。『私ばかり大変』と口に出し、これ見よがしに溜息をつき、時には怒りに任せてののしる・・・『すべきことをすることが本当の満足につながる』ということを実践してみようと、まず自分がいつも笑顔でいることにした・・・朝、出勤前のバタバタの時、一番先に起きて、夫と自分の弁当を作り、子供たちに食事をさせ、歯を磨いてやり、着替えを手伝う。自分はトイレに行く暇も化粧をする暇もなく、保育園に送って行かなければといつも不満に思っていた。でも、笑顔でおはようと言い、普段通りに家事をしながら、『顔洗ってくるからお願い』とハブラシと着替えを置いておくと、彼が子供の世話をしてくれるようになった。復讐というのは、実は自分の優位性を自分が実感するためにすることではないか。傷つけられたプライドを修復しようとすることだ。私が夫にしてきたことはこの意味での復讐だった。でも『復讐したいという気持ち』を脇に置いてみたら、少しずつ関係がよくなってきた」。
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