すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.懲らしめを訓練として受け入れた時、懲らしめが恵みに変わる

・箴言12章は、「知恵ある者と愚か者」、「神に従う人と神に逆らう者」を対比させながら、人間の生き方を教える。最初のテーマは「懲らしめ」をどのように受け入れるかである。
−箴言12:1「諭しを愛する人は知識を愛する。懲らしめを憎む者は愚かだ」。
・懲らしめをどのように受け入れるか、知恵ある者はそれを神からの試練と受け入れるが、愚か者は懲らしめを憎む。運動選手が自分の肉体に負荷をかけることによって、運動に耐えられるように体を鍛えるのと同様、主は懲らしめを鍛錬として与えられると箴言は語る。
−箴言3:11-12「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる」。
・訓練あるいは試練の問題を信仰論として展開させたのがパウロである。パウロには肉体のとげ(てんかんとも眼病とも言われている)が与えられ、それを取り除いてくれるよう繰り返し祈ったが、与えられたのは「弱さこそあなたに必要だ」との声であった。パウロはそれを受け入れ、珠玉のような文章を残した。
-2コリント12:7-10「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。
・人はだれもが楽な道を選び、苦しみを避けたいと思う。しかし、苦しみを通らない限り、人は諭しを受け入れることなど出来ない。苦難を通してしか人は真理を知ることは出来ないのだ。
-河野進・病まなければ「病まなければ捧げ得ない悔い改めの祈りがあり、病まなければ聞き得ない救いの御言葉があり、病まなければ負い得ない恵みの十字架があり、病まなければ信じ得ない癒しの奇跡があり、病まなければ受け得ない労わりの愛があり、病まなければ近づき得ない清い聖壇があり、病まなければ仰ぎ得ない輝く御顔があり、おお、病まなければ人間でさえあり得なかった」。

2.人の手の働きはその人に報いを与える

・5節からは「神に従う人と神に逆らう者」が対比される。神に従う人と逆らう者を分けるものは何か。それは「目先の利益や自己の都合を優先するか」、それとも「主の前にあることを意識しながら生きるか」である。つまり、正義を求めるのか、自己の利益を求めるのかである。
-箴言12:5-13「神に従う人の計らいは正義。神に逆らう者の指図は裏切り。神に逆らう者の言葉は待ち伏せて流血を犯す。正しい人の口は自分を救う。神に逆らう者は覆って滅びる。神に従う人の家は耐える・・・神に逆らう貪欲は悪人らを捕える網となる。神に従う人の根は実りを与える。悪人は唇の罪の罠にかかる。神に従う人は苦難から逃れ出る」。
・「目先の利益や自己の都合を優先する」典型が今回の総選挙ではないかと思える。高齢化に伴う社会保障費の増大で、消費税の引き上げは不可避であることは万人が認めるのに、時の政権は痛みを先送りして総選挙を行おうとしている。箴言的な言い方をすれば、「目先のelectionのために、将来のgenerationに痛みを先送りする事こそ、愚か者の所業であり、彼はその報いを受け取るであろう」と。
-箴言12:14「口の言葉が結ぶ実によって人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる」。
・箴言は「神に従う人は苦難から逃れ出る」(12:13)とするが、これは正しい人には苦難が臨まないという意味ではない。苦難は正しい人にも悪しき人にも平等に臨む。ただ正しい人はその苦難を神からの試練と受け取るゆえにその苦難から逃れる事ができるとパウロも語る。
-2コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。

3.愚か者の愚かさ〜自分が無知であることを知らぬこと

・無知の怖さは自分が無知であることを知らない時に現れる。箴言12:15-16もまた至極の言葉だ。
-箴言12:15-16「無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している」。
・箴言は「諭しを愛する人は知識を愛する。懲らしめを憎む者は愚かだ」(12:1)と語るが、それは経験してみないとわからない。それを如実に示すのが、ルカ15章「放蕩息子の喩え」である。
-ルカ15:11-20「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた・・・彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ』。ここをたち、父のところに行って言おう『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。そして、彼はそこをたち父親のもとに行った」。
・父親は彼を無条件で迎え、放蕩息子は生き返った。箴言が語るように「知恵ある舌は癒す」のである。
-箴言12:18「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」。
・しかし帰郷した弟を兄は喜ばない。彼はまだ自分が無知であることを知らないからだ。
-ルカ15:28-32「兄は父親に言った『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』。すると、父親は言った『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」。
・イエスが言われたように「人は見えると言いはる所にその罪がある」のだ。
-ヨハネ9:40-41「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて『我々も見えないということか』と言った。イエスは言われた『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』」。
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