すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.神の御前にある生き方

・箴言11章は神の御前にある生き方とそうでない生き方を比較し、御前にある生き方を選ぶように勧める。最初に取り上げられるのが、はかりを誤魔化して利益を得ようとしても主は見ておられるという主張だ。当時の使用人の賃金は収穫したぶどうの重さによって支払われていたが、雇い主はそれをごまかそうとする現実があった。
−箴言11:1-3「偽りの天秤を主はいとい、十全なおもり石を喜ばれる。高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。正しい人は自分の無垢に導かれ、裏切り者は自分の暴力に滅ぼされる」。
・商売に伴う不正は何時の時代にもあるが、主は見ておられ、不正は必ず暴かれる。それが箴言や詩篇の信仰だ。
−詩篇10:13-15「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう。あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたは孤児をお助けになります。逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き、彼の反逆を余すところなく罰してください」。
・神の御前に生きる人は富を頼りにはしない。裁きの日には富は何の役にも立たない。それは死ねば失われる。
−箴言11:4-7「怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。神に逆らう者は、逆らいの罪によって倒される。正しい人は慈善によって自分を救い、裏切り者は自分の欲望の罠にかかる。神に逆らう者は力に望みをかけ、期待しても死ねばそれも失われる」。
・地上の富は死ねば他者のものになる。死を前にすれば富も虚しいと詩篇作者も歌う。詩篇作者や箴言記者の知恵はトルストイの知恵にも通じる(人はどれほどの土地が必要か〜死者を葬る一片の土地があれば良い)。
−詩篇49:11-13「人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。
・神に従う人の人生は他者を建て上げ、神に逆らう者の人生は他者を滅ぼすと箴言記者は語る。
−箴言11:9-13「神を無視する者は口先で友人を破滅に落とす。神に従う人は知識によって助け出される。神に従う人が幸いを得れば町は喜び、神に逆らう者が滅びれば歓声をあげる。正しい人の祝福によって町は興り、神に逆らう者の口によって町は滅びる。心ない者は友人を侮る。英知ある人は沈黙を守る。悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく」。
・私たちの行為がある時は教会を造り上げ、ある時は教会を壊す。パウロは1コリント14章で「異言よりも預言を求めよ」と語るが、異言は個人の霊性を高めるかもしれないが、誰にも理解出来ず、交わりを壊す。パウロは「オイコドメオー=造り上げる、建てる」という言葉を何度も繰り返す。
-1コリント14:1-4「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。

2.富をどのように活用するのか

・11章後半はお金にまつわる格言が集められている。最初に取り上げられるのは慈善の勧めだ。
-箴言11:17-19「慈しみ深い人は自分の魂を益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る。神に逆らう者の得る収入は欺き。慈善を蒔く人の収穫は真実。慈善は命への確かな道。悪を追求する者は死に至る」。
・日本の経営者はよく「慈善事業をやっているわけではない」と口にする。しかし富が与えられるのは自分の力ではなく、神の賜物(カリスマ)だとする聖書は慈善を当然の行為とする。何故なら富を築く力を与えられたのは神であり、それを独占することは罪だとの信仰があるからである。
-申命記8:17-18「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。
・故に箴言は語る「気前の良い人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う」と。
-箴言11:24-27「散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い、供する人の頭上には祝福が与えられる。善を捜し求める人は好意を尋ね求める人。悪を求める者には悪が訪れる」。
・経済とは「経世済民」の意味であり、民が栄えてこそ経済の意味があり、一部の者だけが栄え、他者は零落するような所得格差の拡大は神の道ではない。経済は社会の土台であるが、それを豊かにするのは人の心であり、「衣食足りても礼節を知らず」という風潮は神を見失った社会である。
-箴言11:28「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る」。

*箴言11章参考資料:寄付の経済学(岡部一明『社会変革NPO』御茶ノ水書房、2000年、第二章より)

・人は死ぬ。だれもが知っているこの当然の事実から人は常に逃げる。不治の病にかかっても告知を避け、死との対面を避ける。経済学も死を避ける。利益という概念、富致をすすめる利己的な個人、ひたすら合理的に動いて自己の便益を最大化する個人。この経済学が基礎とする個人の先にあるもの、それは死である。人は死ぬ。だから例えば、いやな仕事をがまんして金を稼ぎ、あるいは悪行の限りをつくして蓄財して、その先にあるのが死である。人は富を死後の世界にまでもっていくことはできない。古代エジプト王をはじめ、支配者の多くは現世の富を墓にまで持ち込んだ。経済学を死後の世界にまで貫こうとした彼らの試みは、残念ながら成功しなかった。人は、生まれるという奇跡と同じ奇跡をもって人から土に、生命から死に、存在から無に帰るのである。
・したがって死は、経済学の破綻する地点として現れる。臨終の床に多大の財を残すのはミスマネジメントである。富を享受する利己的な「自己」が消失する時点での私的財貨は、その人にとって何ら富でなく単なる物体である。そこに代価として結実した労働苦や神を冒涜して行なわれた数々の悪行は完全な無駄として朽ち果てる。あるいは経済学は、人という死ぬ存在に対し、ある時点から、蓄財ではなくて富の放棄を、本当は命じている。周囲にある衣食住、財貨をしだいに消費し、他に与え、臨終の床には棺桶の代金以外何ものも残さぬよう生きる(死ぬ)ことが根源的な経済学である。
・今日支配的な経済学を辛うじて破綻から救うのが家族制度と遺産相続である。自己の直系の子孫をつくり、それに財産を分与、相続することで、利己的な自己は世代を経て継承される。富致蓄財の経済原理は、死による破綻を免れる。破綻する運命にあった利己的個人の経済学は、相続を介して永遠の生命を得る。この意味で、家族制度と遺産相続は私有財産制のまさに根幹をなしていた。アメリカでは、今後10年間に7兆−8兆ドルの資産が後の世代に相続されるという[Christian Science Monitor, December 6, 1999, p.16]。死によって引き起こされるこの巨大な財貨移動の中で、年々高だか130億ドル程度しか公共の財として放擲(遺産寄贈)されていないことの方がむしろ奇跡である。人はそれほどまでも「利己」にこだわり、富のほとんどを直系の子孫だけに律儀に伝授していく。しかし、その中のたとえわずかであろうとも、どうせ土となり自然に帰る身であるならば生存中の富を「人類」に還元してもいいと考える人びとが出てくる。死によって存在を限られる人間が、これによって再び永遠につながろうとする。「金持ちとして死ぬことの不名誉」(カーネギー)が感得され、別の経済学が動き出す。蓄財や子どもにまわす所得の一部を寄付に、相続にまわす財を社会への寄贈へ。ある人びとは、銅像を建ててもらうこととひきかえに、またある人びとは宗教的教えに支えられながらこの行為を行なう。多くの人びとにとって決断は、若い時代よりも、死を身近に意識しはじめた年代でより頻繁に行なわれる。例えば、アメリカ人の寄付は平均して所得の2.1%だが、55−64歳の年代で2.4%、65−74歳で3.9%の寄付がある[Independent Sector, Nonprofit Almanac, 1996-1997]。
・私的な相続と公共への寄贈が競合関係にあるとするならば、相続志向が弱い社会ほど、より多くの富を公共に向かって吐き出す。つまり、家族の紐帯が比較的弱ければ、それだけ遺産は公共に流れやすい。つながりが強ければ、所得はより排他的に「身内」に投入され、遺産は几帳面に直系子孫に相続される。つまり、家族的つながりの強弱が寄付額の大小に比例する。子が別の人格として早くから独立する社会では、死の声を聞いた人びとは、より大きな共同体の中に生きようとする衝動をより純粋な形で経験し、実行しようとする。神の教えと蓄積された宗教的体験がこれを補強する。
・生産のみを語り、消費された生産物の最終処理過程(回収や分解)を対象からはずす今日の経済学は、同じ誤りをもって、死を対象外におく。しかり。経済学は生きる人を対象とする。人は生きるために様々な資源が必要である。だが、より根源的には、経済学は「生きて死ぬ人」を対象とすべきである。人は、生きるために衣食住を得、明日さらに生きるために蓄財する。しかし同時に人は死ぬために財を解き放つ。財を持ったまま死ぬことは不名誉であり、資源の浪費である。社会のものは社会に、自然のものは自然に。個人は死に向かう過程ですべてを、自分の肉体を自然に返すことを含めてすべてを、外界に返し、無に帰る。死の経済学は新しい原理を生む。与えることが合理的であり、財を墓にもちこもうとすることは非合理である。人と社会、人と自然のこの根源的な意味での経済合理性が、現在、日本においてもアメリカにおいても同様にその発露が限定され、特異な行為として珍しがられるのは、ただ、今日型の経済社会の幻想による。
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