すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.知恵とは何か

・箴言8章では知恵が擬人化され、女性型で描かれている(ヘブル語ホクマーは女性名詞、なおギリシア語ソフィアも女性型で示される)。そこでは、浅はかな者や愚かな者たちに、「道を誤るな」と呼びかける知恵が登場する。
−箴言8:1-5「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。『人よ、あなたたちに向かって私は呼びかける。人の子らに向かって私は声をあげる。浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ』」。
・知恵は金銀にまさる価値を持つ。何故ならば知恵は人が人生を誤らないように導くからだ。
−箴言8:10-11「銀よりもむしろ、私の諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない」。
・安倍内閣は今、「カジノ設置法案」を成長戦略の柱として推進しているが、その結果新たな破産者の群れが生まれるであろう(日本のギャンブル依存症は成人男性の9.6%でアメリカ0.6%、マカオ1.8%に比し飛び抜けて高い。公営ギャンブルやパチンコの存在のためと思われる)。酒や賭博や売春は悪ではあるが、禁止した場合、地下に潜り、より大きな害悪になる。それは必要悪である。しかし必要悪は、「公に推進すべきもの」ではない。現内閣には「見分ける力」、すなわち知恵が欠けている。知恵がなければ王は君臨できず、支配者は正しい政治は出来ないと箴言は語る。
−箴言8:14-16「私は勧告し、成功させる。私は見分ける力であり、威力をもつ。私によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、私によって治める」。
・知恵は求める者には与えられる。箴言がソロモンの知恵と呼ばれるのは、ソロモンが知恵を求め(列王記上3:7-9)、その結果知者として尊敬されたからであろう。
−箴言8:17-21「私を愛する人を私も愛し、私を捜し求める人は私を見いだす。私のもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。私の与える実りは、どのような金、純金にもまさり、私のもたらす収穫は、精選された銀にまさる。慈善の道を私は歩き、正義の道を私は進む。私を愛する人は嗣業を得る。私は彼らの倉を満たす」。
・しかしソロモンも晩年には愚かになり、多くの妻妾を持ち(700人の王妃と300人の側室)、異国人の妻たちに勧められてモレク神への幼児奉献さえも行った(列王記上11:3-7)。知恵は求め続けなければ失うのであろう。
−箴言8:35-36「私を見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる。私を見失う者は魂をそこなう。私を憎む者は死を愛する者」。

2.創造の初めから共にいた知恵

・8:23以下に、知恵が創造の初めから、神と共にいたと箴言は証言する。
-箴言8:22-25「主は、その道の初めに私を造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、私は祝別されていた。太初、大地に先立って。私は生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、私は生み出されていた」。
・この箴言8章の記述は初代教会では、先在のキリストを示すものとして解釈された。ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス・キリスト論」は、箴言8章の知恵をロゴス(言葉)に読み替えたものである。
-ヨハネ1:1-3「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。
・4世紀のニカイア教会会議で、アリウスは箴言8章を「イエスが被造物であり、神より劣る」証拠として持ちだし、イエスの神性を否定し、三位一体を唱えるアタナシウス派により異端と宣言された。
-箴言8:25-31「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、私は生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。私はそこにいた。主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされた時、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられた時、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められた時。御もとにあって、私は巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」。

3.知恵はキリストなのか

・2008年10月22日教皇ベネディクト十六世は155回一般謁見演説で「知恵の受肉こそキリストである」と宣教した。カトリック教会においての伝統的な読み方である
-教皇謁見演説から「パウロは言います『時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、私たちを神の子となさるためでした』(ガラテヤ4・4−5)。父とともにおられる永遠の『先在』の次元と、『受肉』による主の降下という、この二つの次元は、すでに旧約において『知恵』の姿で告げられています。私たちは旧約の知恵文学のうちに、先在の知恵の役割を、世を創造することにまで高める箇所を見いだします。たとえば造り主である知恵について語る次の箇所もそうです。『主は、その道の初めに私を造られた。いにしえのみわざになお、先立って。永遠の昔、私は祝別されていた。太初、大地に先立って』(箴言8・22−23)。聖パウロはそのキリスト論を展開する中で、このような知恵のあり方に言及します。すなわち、パウロはイエスのうちに、とこしえに存在する永遠の知恵を認めます。この知恵は降ってきて、私たちの間に幕屋を張ります。こうしてパウロは、キリストが『神の力、神の知恵』であり、『私たちにとって神の知恵となり、義と聖とあがないとなられた』(一コリント1・24、30)ということができました」。
・確かにパウロはキリストを「神の知恵」と呼び(1コリント1:24)、パウロの後継者の書いたコロサイ書は箴言8章をギリシア語で翻案してイエスの神性を証しする。
-コロサイ1:15-17「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。
・箴言8章をキリスト論的に読む読み方は解釈としてあっても良いが、私たちはそのような読み方はしない。旧約聖書はあくまでも旧約聖書として読むべきであって、箴言の著者はキリストの予型として知恵を記述したわけではない。同じようにイザヤ7章のインマヌエル預言も時の王アハズに向けられたイザヤの言葉で、キリスト誕生を預言するものではない。旧約は旧約の文脈の中で読むべきであろう。
−イザヤ7:14-16「私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」。
−マタイ1:21-23「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」。
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