すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.子供たちに残すべき知恵

・箴言4章では学びを終えた若者たちに、知恵の教師が送る惜別の言葉だ。彼は言う「自分も若い時に父に教えられ、その言葉を守って成人となった。知恵の言葉はあなたに命を与えるものだ」と。
−箴言4:1-4「子らよ、父の諭しを聞け、分別をわきまえるために、耳を傾けよ。私は幸いを説いているのだ。私の教えを捨ててはならない。私も父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった。父は私に教えて言った『私の言葉をお前の心に保ち、私の戒めを守って、命を得よ』」。
・「知恵を得ることは分別を得ることである。それはあなたの人生を導き、あなたの頭の上に栄冠を与えるであろう」と教師は旅立つ若者に語る。
−箴言4:5-9「私の口が言いきかせることを忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。知恵を捨てるな、彼女はあなたを見守ってくれる。分別を愛せよ、彼女はあなたを守ってくれる。知恵の初めとして知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても分別を獲得せよ。知恵をふところに抱け、彼女はあなたを高めてくれる。分別を抱きしめよ、彼女はあなたに名誉を与えてくれる。あなたの頭に優雅な冠を戴かせ、栄冠となってあなたを飾る」。
・日本では育児や教育に関する父親の関与が少ない。家族社会学的調査では、父親不在の家庭の子供たちは精神的な適応が悪化し、学業成績が悪くなり、反社会的な行動が増え、結婚してからの離婚率も高くなるという。カナダの調査機関は父親の仕事について、次のように述べる
-「父親の仕事は、子どもの発達を助けることであり、子どもが自分の感情を把握して表現するように教え、生理学的な困窮を避けるよう教えることであり、子どもが良い経験をする場を提供することであり、子どもが頑張って目標に到達し責任を果たすのを助けることであり、市民・配偶者・親としての役割を子どもに少しずつ理解させることである。手短に言えば、子どものお腹を食べ物で満たし、子どもの頭を知恵で満たし、子どもの心を愛と勇気で満たすことである」。
・日本の父親には箴言が不足している。次のような言葉を父親は巣立つ子供たちに言う事ができるだろうか。
−箴言4:10-13「わが子よ、聞け、私の言うことを受け入れよ。そうすれば、命の年月は増す。私はあなたに知恵の道を教え、まっすぐな道にあなたを導いた。歩いても、あなたの足取りはたじろがず、走っても、つまずくことはないであろう。諭しをとらえて放してはならない。それを守れ、それはあなたの命だ」。

2.知恵は人生の選択を助ける

・人生は常に選択を迫られる。間違った道を歩み始めた時、その支払うべき代償は大きい。知恵の教師は若者に悪を行う者の末路を警告する。
−箴言4:14-19「神に逆らう者の道を歩くな。悪事をはたらく者の道を進むな。それを避けよ、その道を通るな。そこからそれて、通り過ぎよ。彼らは悪事をはたらかずには床に就かず、他人をつまずかせなければ熟睡できない。背信のパンを食べ、不法の酒を飲む。神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。神に逆らう者の道は闇に閉ざされ、何につまずいても、知ることはない」。
・この二つの道の例えは旧約聖書に繰り返し出てくる。申命記28章がその典型である。
−申命記28:1-15「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日私が命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう・・・しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」。
・人生の現実は、人が正しい道を選ぼうとしても、その選択が難しい場合も多いことを示す。また、仮に最善と思える道を選択してもその結果が良いかどうかわからない。それでも、私たちは迷いながら一つの道を決断する。そして年月が経ち、振り返ってみた時、私たちの選択や決断と思っていたものが、実は神の導き、経綸であったことを知る。病者の祈り(A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED)はそのことを私たちに示す。
−病者の祈り「大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ」。
・最後に著者は若者に「私の言葉に耳を傾けよ、死ぬな、生きよ」と呼びかける。
−箴言4:20-25「わが子よ、私の言葉に耳を傾けよ。私の言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ」。
・私たちは子供たちにどのような言葉を残して死ぬことが出来るのだろうか。1996年に死んだ司馬遼太郎は「二十一世紀を生きる君たちへ」という小冊子を残した。その中で彼は言う「優しさやいたわりは本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない」。この本は司馬の箴言なのである。
-司馬遼太郎・二十一世紀を生きる君たちへ「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。君たちは、ちがう。二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、その輝かしい担い手でもある。もし「未来」という町角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう・・・自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動の元の元は、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」、「他人の痛みを感じる」、「やさしさ」、みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中で作り上げていきさえすればよい。この根っこの感情が、自分の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちも湧き出てくる。君たちさえ、そういう自己を造っていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない」。
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