すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.求めるものは神と出会う

・箴言はユダヤの子どもたちを導くための道徳の教科書である。その道徳の基本は「神の戒め」に従うことである。箴言の著者は熱心に求めるものは、その求めを通じて「神に出会う」と語る。
-箴言2:1-5「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう」。
・「主を畏れる事こそ知恵の初め」(箴言1:7)である。自分を超える存在を認めない時、人は自分が神になり、敵対者を排除していく。歴史上、血の粛清を行った独裁者たちは(例えばヒトラー、スターリン、毛沢東等)、みな無神論から出ている。無神論の怖さは倫理や道徳の基礎が見いだせず、自己自身が道徳になることである。
-近藤剛・神の探求から「フォイエルバッハは語った『人間は人間にとって神である』。カール・マルクスは語った『宗教は民衆の阿片である』。ジグムンド・フロイトは語った『宗教は幻想であり、強迫神経症のようなものである』。リチャード・ドーキンスは語った『神は妄想である』。神の掟から解放された自我は肥大し、人は自らを追い求めるエゴイストとなり、やがては人間自身が神になろうとする。ニーチェは『神は死んだ』と宣言した。神が死んだ、ないし神が虚構であるとすれば、人間の価値判断の基準も虚構になる。そこにおいては、何が善であり、何が悪であるのか、それを基礎づける絶対的な根拠が失われた。絶対性を失った倫理は相対化され、『人を殺すのが何故悪いのか』という問いにさえ、答えを無くしてしまう。ニーチェがわれわれに教えたことは『人が生まれてきたことに何ら目的はなく、生きていることに何ら意味はなく、私たちの存在には何らの価値も与えられず、私たちの生存には必然性はない』ということである。それが現実の在り方であるとすれば、私たちにとっては非常に過酷なことと言わなければならない。果たして私たちは、この事実に耐えることができるか。あるいは、この事実を前にして、健全な生を全うすることができるのか」。
・箴言の著者はこれに対して、「知恵を授けるのは主であり、主はあなたの行く道を守る」と説く。
-箴言2:6-8「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて、裁きの道を守り、主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる」。
・主の知恵とは「正義と裁きと公平」である。これは旧約聖書そのものを導く柱でもある。
-箴言2:9-12「また、あなたは悟るであろう、正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり、慎重さがあなたを保ち、英知が守ってくれるので、あなたは悪い道から救い出され、暴言をはく者を免れることができる」。

2.悪の道を離れよ

・若者(ここでは青年男子)にとっての最大の危険は「悪の道への誘惑」と、「女性への迷い」である。最初に著者は悪の道に染まることによって人生は破滅しかねないことを示す。
-箴言2:13-15「彼らはまっすぐな道を捨て去り、闇の道を歩き、悪を働くことを楽しみとし、悪と暴言に小躍りする者。彼らの道筋は曲がり、通う道はくねっている」。
・悪の怖さはその結果が自分に帰ってくることだ。悪の種を蒔いた者はその実を刈り取らなければいけない。
-箴言1:15-19「わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。彼らの足は悪事に向かって走り、流血をたくらんで急ぐ。翼あるものは見ている。網を仕掛けるのは徒労だ。待ち伏せて流すのは自分の血。隠れて待っても、落とすのは自分の命。これが不当な利益を求める者の末路。奪われるのは自分の命だ」。
・16節からは姦淫を求める女性に近づくなと警告する。「若き日の伴侶を捨て、自分の神との契約を忘れた女」とは結婚の誓約を破った人妻の不倫を指すのであろう。
-箴言2:16-19「また、よその女、滑らかに話す異邦の女をも、あなたは免れることができる。若き日の伴侶を捨て、自分の神との契約を忘れた女を。彼女の家は死へ落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている。彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。命の道に帰りつくことはできない」。
・不倫への戒めは箴言に繰り返し現れる。男は性の誘惑に負けやすい本質を見つめている。
-箴言5:3-19「よその女の唇は蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだ。だがやがて、苦よもぎよりも苦くなり、両刃の剣のように鋭くなる。彼女の足は死へ下って行き、一歩一歩と、陰府に達する・・・子らよ、私に聞き従え。私の口の言葉からそれてはならない。あなたの道を彼女から遠ざけよ。その門口に近寄るな・・・さもなければ後になって、肉も筋も消耗し、あなたは呻き言わなければならない『どうして、私の心は諭しを憎み、懲らしめをないがしろにしたのだろうか。教えてくれる人の声に聞き従わず、導いてくれる人の声に耳を向けなかった』・・・若いときからの妻に喜びを抱け。彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。いつまでもその乳房によって満ち足り、常にその愛に酔うがよい」。
・最後に2章のまとめが示される。「善人は栄え、悪人は滅びる」、それが箴言の結論である。
-箴言2:20-22「こうしてあなたは善人の道を行き、神に従う人の道を守ることができよう。正しい人は地に住まいを得、無垢な人はそこに永らえる。神に逆らう者は地から断たれ、欺く者はそこから引き抜かれる」。
・しかし現実はそうではないことを私たちは知っている。それへの抗議がヨブ記である。箴言はヨブ記と共に読む時、現実を見つめる書になりうるのではないか。

*箴言2章参考資料:悪とは何か 司馬遼太郎「日本は何故こんな愚かな国になってしまったのだろう」から

・司馬遼太郎はモンゴルに戦車隊の一員として出征している。そして22歳で敗戦を迎えた。司馬は敗戦のときに自らの心に生じた「日本人はなぜこんな愚かな戦争をする民族になってしまったのだろうか」という素朴な疑問がきっかけになって、歴史と人物を渉猟し、歴史小説を書いた。『戦国時代』『幕末』『明治維新』『大正デモクラシー』までの日本は、『愚か』と断ずることはできない国で、『賢さ』をみせた偉人、ヒーローが存在した。司馬遼太郎はその時代の人物を小説の主人公にしている。
・司馬は第二次世界大戦へ突入するきっかけになった『ノモンハン事件』を、小説にしようとして10年以上の取材をしたが、最後は断念している。この事件にかかわった人物たちは、『官僚的な発想しかできない軍人』、『妖怪のように得体の知れない軍人』ばかりで、彼の琴線に触れる、主人公たる人物が見当たらなかったという。
・NHK Eテレ「日本人は何をめざしてきたのか〜知の巨人たち第4回『二十二歳の自分への手紙・司馬遼太郎』の中で司馬は語る「敗戦の直前、何のために死ぬのかを悩み続けていた私に次の質疑応答が胸に突き刺さりました。ある若い将校が『本土決戦が迫ったある日、もし敵が上陸したとして、我々が急ぎ南下する。そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいのでありますか』と聞いたところ、大本営からきた少佐参謀は『軍の作戦が先行する。国家のためである。轢き殺してゆけ』と言った。東京から避難して北関東に上がってくる人、そこにいる女の子、小さな子とか真っ先に死にます。死ぬためにと威張っていられる軍人・兵士はみんなのために死ぬんじゃなくて、みんなのほうが先に死ぬ。県民が先に死ぬ。何だろうと思いました。終戦の放送を聞いた後、なんと愚かな国にうまれたことかと思った」。
・むかしはそうではなかったのではないか、敗戦の時のこの思いが、のちの作家司馬遼太郎の原点となった。彼は語る「どうして日本人はこんなにばかになったのだろう。二十二歳で敗戦を迎えた時の感想でした。昔は違っていただろうというようなことを、もう私は本当に二十二歳の自分へ書いている手紙でした。そこから私の小説は始まるのです。『竜馬がゆく』もそうでしたし、『坂の上の雲』もそうでした。その後もそうでした。『日本人とは何か』がテーマでした」。
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