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1.エズラの帰還

・エズラ記1-6章はバビロンから解放された捕囚民の神殿再建の出来事を伝える(前538-515年)。7章以降は、それから70年を経た前458年のネズラの帰国を伝える。エズラはバビロンに残った捕囚民の子孫で、祭司の家系であり、ペルシア帝国の書記官(ソ−フェール=律法の教師)でもあった。
-エズラ7:1-6「これらの事があって後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、エズラがバビロンから上って来た。エズラの祖先は、父がセラヤ、祖父がアザルヤ・・・エルアザル、そして祭司長アロンとさかのぼる。エズラは、イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた」。
・捕囚時代、ユダの民は民族の同一性を保つために古代からの伝承をトーラー(モーセ5書、創世記以下)として編集し、バビロンにはトーラー(律法)の研究を行う律法学者も生れていた。その律法の教師エズラが祖国に律法を公布するために帰国した。バビロンからエルサレムまで4ヶ月の旅程であった。
-エズラ7:7-10「アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエルの人々、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人から成る一団がエルサレムに上り、同王の第七年の第五の月にエルサレムに到着した・・・エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した」。
・ペルシアはこのエズラの帰還を支援している。植民地ユダヤの人心安定は治世者ペルシアにも有益だったからである。エズラ記はその時のペルシア王の通達を掲示する。
-エズラ7:11-16「イスラエルに対する主の戒めと掟の言葉に精通した、祭司であり書記官であるエズラに、アルタクセルクセス王は親書を送った。以下はその写しである。『諸王の王であるアルタクセルクセスは、天にいます神の律法の書記官、祭司エズラに心からの挨拶を送る・・・わが国にいるイスラエルの人々、祭司、レビ人でエルサレムに行くことを望む者はだれでも、あなたと共に行ってよい・・・エルサレムに住まいを定められたイスラエルの神に、私と顧問官が寄進する金銀を持って行くこと、またバビロニアの州の至るところであなたが得るすべての金銀を、民と祭司がエルサレムにある彼らの神殿に寄進する献げ物と共に持って行くことである』」。
・通達は「エズラが律法を公布するに際し必要な費用は国庫で負担する」と述べる。異邦人の王の手を用いて神がその業を行われたと当時の人々は感動している。律法の公布式の記事がネヘミヤ記にある。
-ネヘミヤ記8:9「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」。民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」。
・歴史的には、この律法の公布を持ってユダヤ教が始まったとされる。以降、ユダヤ教は神殿祭儀(贖いの供え物の奉献)と律法順守を二本の柱に展開する。

2.律法をどのように理解するか

・時代の経過と共に、この律法は形骸化し、律法を守らない者は罪人として排斥されていくようになる。イエスが対決されたのはこの律法主義に立つパリサイ人や律法学者であった。
-マルコ2:23-28「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。イエスは言われた『・・・安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」。
・イエスは律法を否定されたのではない。形式化した律法を根底から読み直すことを求められた。
-ルカ10:25-28「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』。イエスが『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります』。イエスは言われた『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」。
・パウロも愛が律法を完成させると理解している。
-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。
・しかし律法を守れば救われるというユダヤ人の考え方にパウロは反対する。人は律法を守り通すことなど出来ないからだ。だから福音が与えられたというのが新約の理解である。
-ローマ3:19-22「すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。
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