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1.帰還民のリスト

・前538年バビロニヤ帝国はペルシアに滅ぼされ、ペルシア王クロスは捕囚民の帰国命令を出す。その命令への記述でエズラ記は始まる。ユダは罪を犯した故に神に打たれ、国を滅ぼされた。しかし神はその罪を赦し、祖国への帰還を赦して下さり、そのための器としてペルシア王を用いられた。その信仰がこの短い文章の中にある。
-エズラ記1:1-4「ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。『ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ』」。
・2章に最初の帰還民のリストがある(同じリストがネヘミヤ記7:6-73にもある)。最初の帰還を指導したのはゼルバベルとヨシュアであった。帰還者を分類すれば次のようになる。
-ゼルバベルとその仲間(2:1,2)11名
-氏族別の帰還者人数(2:3-20)15,604名
-所属別の帰還者人数(2:21-35)8,540名
-祭司数(2:36-39)4,289名
-レビ人の数(2:40-42)341名
-宮に仕える僕たちとソロモンの僕たちの子孫(2:43-58)392名
-血統不明の人々(2:59-63)652名
・全集団の合計は、42,360名とされる(2:64)。しかし、表記された数値を合計してみると29,829名で相違する。ペルシア帝国の帰還者名簿を移す際の誤りかもしれない。なお帰国しなかった多くの者たちもいた。この帰還者名簿から推察されることは、60年の時を経てもユダがその民族の同一性を維持できたことである。捕囚によりバビロンに連れされた人数は男だけで1万人、家族も含めれば数万人だったとされる(列下24:14)。彼らはエレミヤの手紙に示されたように、その地で子孫を増やし、帰国を待ったのである。
-エレミヤ29:4-6「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」。

2.帰還民が最初に行ったのは礼拝であった

・帰国した彼らは破壊された神殿に行き、その神殿の再建のために、精一杯のものを捧げることを誓う。
-エズラ2:68-70「エルサレムの主の神殿に着くと、家長の幾人かは、神殿をその場所に再建するために随意の献げ物をささげた。彼らはそれぞれ力に応じて工事の会計に金六万一千ドラクメ、銀五千マネ、祭服百着を差し出した。祭司、レビ人、民の一部、詠唱者、門衛、神殿の使用人はそれぞれ自分たちの町に住んだ。イスラエル人は皆それぞれ、自分たちの町に住んだ」。
・彼らはやがて神殿の廃墟の中に神の祭壇を築き、礼拝を捧げた。しかし、先住民に妨害されることを畏れたとエズラ書は書く。
-エズラ3:1-3「第七の月になって、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。祭司たち、すなわちヨツァダクの子イエシュアとその兄弟たちは、シェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちと共に立ち上がり、イスラエルの神の祭壇を築き、神の人モーセの律法に書き記されているとおり、焼き尽くす献げ物をその上にささげようとした。彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築き、その上に焼き尽くす献げ物、朝と夕の焼き尽くす献げ物を主にささげた」。
・彼らの生活の中心は礼拝であったから、帰国した彼らは最初に礼拝を持って新しい生活を始めた。しかしやがて先住のサマリヤ人との間に争いが起こる。帰国した人々は自分たちこそ正統のイスラエルであり、捕囚に合わなかった人々や混血の人々を排除した。
-エズラ記4:1-5「ユダとベニヤミンの敵は、捕囚の子らがイスラエルの神、主のために聖所を建てていることを聞いて、ゼルバベルと家長たちのもとに来て言った『建築を手伝わせてください。私たちも同じようにあなたがたの神を尋ね求める者です。アッシリアの王エサル・ハドンによってここに連れて来られたときから、私たちはこの神にいけにえをささげています』。しかし、ゼルバベルとイエシュア、他のイスラエルの家長たちは言った『私たちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、私たちに託された仕事です・・・私たちだけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます』。そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした」。
・アメリカに最初に移住した人々が行ったのも収穫感謝の礼拝であり、それが後の感謝祭になっていく。感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると言われている。ピルグリムがプリマスに到着した1620年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンのワンパノアグ族からトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられた。1621年の秋は、収穫が多かったので、ピルグリム・ファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが感謝祭の始まりとされる。宴会は3日間続き、入植者53人と先住民90人が参加したと言われる。
・しかし、この感謝がやがて隣人の排除になっていく。エズラ記で書かれた出来事と同じである。
-その後アメリカ大陸に来た移民たちは先住民を野蛮人と見なし、彼らをキリスト教に改宗させて文化的に進化させようと試みた。その土地に最初から住んでいて、白人植民者を助けた先住民たちはこれを拒否し、白人たちは先住民を絶滅させたりしながら土地を収奪し、米国の領土を広げてきた。ピルグリム・ファーザーズを助けたワンパノアグ族でさえ、その5年後には虐殺されている。犠牲者である先住民たちはこの感謝祭をきっかけに大災難を蒙ることになったので、彼らはこの日を「哀悼の日(A Day of Mourning)」と呼ぶ。優れた文化を持った先住民を抑圧・虐殺して発展してきたアメリカである。現在、先住民(ネイティブ・アメリカン)たちは居留地に隔離されて、不自由な生活を強いられている。アメリカの感謝祭は重い歴史を背負っている。
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