すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マラキ書  >  2014年2月27日祈祷会(マラキ1章、真実の礼拝とは何か)
1.マラキの置かれていた時代

・マラキ書は前460年頃に書かれたと言われている。マラキに先立ち、ハガイ・ゼカリヤは神殿を再建すれば救いは来ると預言していた。破壊されていた第二神殿は前515年に完成した。しかし何も変わらなかった。終末の遅延の中で人々の信仰生活は緊張を欠き、無関心と無感動が支配し始めていた。そのような人々に預言者マラキは神の嘆きを伝える。(マラキの後を受けて改革運動を始めたのが、前440年頃のエズラ・ネヘミヤであった)。
−マラキ1:1-2a「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。『私はあなたたちを愛してきた』と主は言われる。しかし、あなたたちは言う『どのように愛を示してくださったのか』、と」。
・神に対する感動を無くした時には神の愛が見えなくなる。だから人々は言う「どのように愛を示してくださったのか。何も変わらず、自分たちは未だにペルシャの植民地で総督に支配されているではないか。領土もダビデ時代の1割になってしまった。どこに祝福があるのか」と。それに対して主は言われる「エドムを見よ、彼らは国を滅ぼされ、放浪している。しかし、あなたがたは故郷エルサレムに住むことを許されているではないか」と。
−マラキ2:b-5「エサウはヤコブの兄ではないかと主は言われる。しかし、私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。私は彼の山を荒廃させ、彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。たとえエドムが『我々は打ちのめされたが、廃虚を建て直す』、と言っても万軍の主はこう言われる『たとえ、彼らが建て直しても私はそれを破壊する』、と。人々はそれを悪の領域と呼び、とこしえに、主の怒りを受けた民と呼ぶ。あなたたちは、自分の目で見、はっきりと言うべきである『主はイスラエルの境を越えて大いなる方である』、と」。
・同時代エドムはナバテヤ人により国を追われ、放浪していた。イスラエル滅亡時、エドムはバビロニヤ軍の先陣に立ちユダを攻め、侵略した経緯がある。その報復として主はエドムを打たれた。それに対しあなたがたは主の護りの中にあるのに礼拝をおろそかにしている。あなた方は主への捧げ物を「どうせ焼かれるのだから売り物にならない病気や傷のある羊を捧げようとしている」。それが正しい感謝の在り方だろうかとマラキは言う。
−マラキ1:6-8「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか。私が主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのかと万軍の主はあなたたちに言われる。私の名を軽んずる祭司たちよ、あなたたちは言う『我々はどのようにして御名を軽んじましたか』、と。『あなたたちは私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる』。

2.真実の礼拝を求めるマラキ

・支配者であるペルシャ総督には捧げない傷のある羊を(仮にそうすれば処罰が来るであろう)、主の祭壇には捧げる。何を優先するのかという問題である。大雪になっても人々は勤務先に向かう。行かないと給与がもらえないからだ。大雪になると人々は礼拝を休む。休んでも罰は来ないからだ。でもそれで良いのか。礼拝とは何かを考えるように、マラキは私たちにも問いかける。
−アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・マラキはアモスと同じように、そのような礼拝を主は求められないと宣言する。それくらいであれば主の祭壇を閉じよとさえマラキは語る。主は捧げ物を求められるのではなく、真実な心を求められるのだ。
−マラキ1:9-10「今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを受け入れてくださるだろうかと万軍の主は言われる。あなたたちのうち誰か、わが祭壇に、いたずらに火が点じられることがないよう戸を閉じる者はいないのか。私はあなたたちを喜ぶことはできないと万軍の主は言われる。私は献げ物をあなたたちの手から受け入れはしない」。
・マラキは「あなたがたの礼拝に比べれば異教徒の礼拝の方がまだましだ」とさえ言う。
−マラキ1:11-14「日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。それなのに、あなたたちは主の食卓は汚されてもよい、その食卓の果実は食物として軽んじられてもよいと言って、御名を冒涜している。また、なんと煩わしいことかと言って、私をさげすんでいる、と万軍の主は言われる。あなたたちが盗んできた動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを献げ物として携えてきているのに、私はあなたたちの手からそれを快く受け入れうるだろうか、と主は言われる。群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると誓いながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。私は大いなる王で、私の名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる」。
・私たちは何のために礼拝をするのであろうか。報奨を求めて礼拝するのか、感謝の礼拝をするのか。苦難がある時には忍耐が必要である。苦難がなく、緊張が緩んでいる時には何が必要なのだろうか。聖書は「目覚めよ」と求める。

*マラキ1章参考資料〜2014年2月9日説教から

・今日の招詞にヨハネ黙示録3:20を選びました。次のような言葉です「見よ、私は戸口に立って、たたいている誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。ヨハネがラオディキア教会に宛てた手紙の一部です。町は商業都市として栄え、豊かさを誇りましたが、豊かさの中で、人々の信仰は自己満足的な、生ぬるい信仰に堕していきました。そのような教会に厳しいイエスの言葉が臨みます「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15-16)。キリストと出会いながら、服従も奉仕もせず、無関心と不徹底な信仰生活を送る教会に対して、キリストは「私はあなたを口から吐き出そうとしている」と言われているのです。
・これは現代の私たちへの警告の言葉です。私たちも「熱くも冷たくもなく、なまぬるく」なっているのではないか。原誠という同志社の先生が、「戦時下の教会の伝道−教勢と入信者」という論文をまとめました(2002年3月)。それによれば.戦時下1942年の日本基督教団全教会の受洗者は年5,929名でした。戦時下、国家による宗教統制は激しさを増し、ホーリネス教団や救世軍などに対する弾圧などが起こり、国家がキリスト教を敵国宗教であるとして疑いの目で見ていた時です。その時に6千名近い洗礼者がありました。戦後、信教の自由が保証され、自由に教会に行くことが出来るようになった1998 年の受洗者は1900名でした。受洗者数は半分以下です。豊かさと平和は信仰を生ぬるくします。
・戦時下の日本教会は社会からの「迫害と敵視」の中にあり、ヨハネ黙示録の教会と似た状況にありました。しかしその中で年間6千名の洗礼者を生み出し、平和な時代になると洗礼者は半数以下になった。何がそうしたのでしょうか。ヨハネは迫害下のスミルナ教会への手紙の中で、「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(2:9)と賞賛します。他方、迫害を経験しなかったラオデキィア教会には「あなたは、私は金持ちだ。満ち足りている・・・と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)と批判しています。「目覚めている」ことが大事なのです。ヨハネの教会や戦時下の日本教会は「目覚めざるを得なかった」。そのことが伝道になった。
・この緊張感を現代の私たちも持つ必要があります。現代は迫害はないかもしれませんが、悪の蔓延に教会もいつの間にか捕らえられています。世の中で進行しているのは、経済格差の拡大であり、地方都市の疲弊です。多くの人々が苦しみの中にある時、「私は金持ちだ。満ち足りている」として自分のことだけに拘れば、教会は貧しくなります。他者に与えない者には神も恵みを与えてはくれないからです。その私たちに黙示録のイエスは呼びかけます。「目を覚ませ」(3:1)、「見よ、私は戸口に立って、たたいている」(3:20)。
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