すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ゼカリヤ書  >  2014年1月30日祈祷会(ゼカリヤ10章、羊飼いのいない民への預言)
1.羊飼いのいない民

・ゼカリヤ9章以下はペルシャを滅ぼし、世界の覇者となったアレキサンダーとその死後に起こったギリシャ諸帝国の圧政の中で苦しめられるユダの民への預言である。アレキサンダーはペルシャを滅ぼし(前331年)、エジプトを征服し、広大なヘレニズム帝国を打ち立てた。第二ゼカリヤはこのアレキサンダーこそメシア(解放者)ではないかと期待をかけたが(9:9-10)、彼は前323年に病没し、その帝国は彼の将軍たちにより分割される。エジプトにはプトレマイオス帝国が、シリアにはセレウコス帝国が立てられ、両帝国はパレスチナの領有権をめぐって繰り返し争い、狭間にあるユダの民は「羊飼いのない羊」のように翻弄される。ゼカリヤ10章はそのような時代背景の中で書かれている。
−ゼカリヤ10:1-3「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる。テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。羊飼いたちに対して、私の怒りは燃える。私は雄山羊を罰する。万軍の主は御自分の羊の群れ、ユダの家を顧み、彼らを輝かしい軍馬のようにされる」。
・「羊飼いがいない」、それは人々にとって生活の基盤が揺るがされる出来事であった。人々は守護神の偶像(テラフィム)や、占い師の託宣に希望をかけるが、その夢は虚しく崩される。ユダはある時にはエジプトの支配下に、次の時にはシリアの支配下に置かれ、征服者たちは民を貪る。そのような征服者に対して主の怒りが燃え上がると第二ゼカリヤは預言する。
−ゼカリヤ10:4-5「彼らから隅の石が、彼らから杭が、彼らから戦いの弓が、彼らからすべての指揮者が出る。皆、勇士のようになり、戦って野の土くれを踏みつける。主が共におられるので、彼らは戦いを挑み、馬に乗る者らを慌てさせる」。
・羊は無力であり、独力では何も出来ない。しかし主は民の苦難を無視されず、避難民や抑留者が戻され、国は強大になると預言される。
−ゼカリヤ10:6-9「私はユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。私は彼らを憐れむゆえに連れ戻す。彼らは私が退けなかった者のようになる。私は彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ。エフライムは勇士のようになり、ぶどう酒を飲んだように、心は喜びに溢れる。その子らも見て喜び、心は主にあって躍る。私は彼らを贖い、口笛を吹いて集める。彼らはかつてのように再び多くなる。私は彼らを諸国の間にまき散らしたが、遠い国にあっても彼らは私に心を留め、その子らと共に生き続け、帰って来る」。

2.離散者の帰国は適わなかったが

・第二ゼカリヤは離散者がエジプトの地から、アッシリアの地から呼び集められ、その数が余りにも多くて、現在の国土では収容しきれなくなると喜びの預言をする。まさに歴史の中の出エジプトが、出バビロンが再び起こり、ユダは再び往時の繁栄を取り戻すとの預言である。
−ゼカリヤ10:10-12「私は彼らをエジプトの地から帰らせ、アッシリアから呼び集め、ギレアドとレバノンの地に来させる。それらも彼らには十分ではないだろう。彼らは苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ。ナイルの深みはすべて干上がり、アッシリアの高ぶりは引き降ろされ、エジプトの王笏は失われる。私は主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる」。
・第二ゼカリヤの預言は実現しなかった。大国同士の争いに翻弄されたユダヤ人はそれぞれの国に居留する。離散のユダヤ人が最も多く住んだのはプトレマイオスの都アレキサンドリアであり、その地で前3世紀に旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳聖書、セプタギュンタ)が編纂され、それを読んだイエスの弟子たちがイエスの十字架死の意味を聖書の中に見出していく。新約聖書に引用される旧約はすべてこのセプタギュンタである。
−詩篇22:1(口語訳)「わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れて私を助けず、私の嘆きの言葉を聞かれないのですか」。
−マルコ15:34「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。
・シリアではセレウコスがアンティオキアを建設し、この町がユダヤ人の一大居留地になり、やがてこの町を拠点にパウロの異邦人伝道が開始されていく。
−使徒11:19-26「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが・・・彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた・・・バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。
・預言は預言者の希望や信仰の告白であり、実現するかどうかはわからない。しかし神は預言者を通してその御旨を伝え、最もふさわしい形で実現される。神の経綸は人間の思惑を超える。
−イザヤ55:8-11「私の思いはあなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉もむなしくは私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。
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