すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ゼカリヤ書  >  2013年12月26日祈祷会(ゼカリヤ6章、最後の幻を見る)
1.第八の幻〜離散した民の帰還

・先にゼカリヤのみた幻の馬(1:8-11)は世界を見守る役目を終えて帰還するところだったが、今度の幻では、彼らは新しい任務を遂行するために世界に出かけようとする。
-ゼカリヤ6:1-5「私が再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった。最初の戦車には赤毛の馬数頭、二番目の戦車には黒い馬数頭、三番目の戦車には白い馬数頭、四番目の戦車にはまだらの強い馬数頭がつけられていた。私は言葉をついで、私に語りかけた御使いに、『主よ、これは何ですか』と尋ねると、御使いは私に言った。『これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである』」。
・馬は北に向かい、あるいは西に向かい、あるいは南に向かう。北は旧バビロニア帝国である。捕囚からの帰還が許された後も多くのユダヤ人たちは残留していた。バビロンに残っている者、あるいはエジプトやシリアに離散した者に神の使いが遣わされ、彼らに、帰国して共に祖国再建に当たるように促しが為されるとの幻であった。
-ゼカリヤ6:6-8「その中の黒い馬は北の国に向かって出て行き、白い馬は西の方へ出て行き、まだらの馬は南の国に向かって出て行く。強い馬も出て来て、今にも飛び出して地上を行き巡ろうとしていたところ、彼が、『さあ地上を行き巡れ』と命じたので、彼らは地上を行き巡った。彼はわたしに叫びながら言った。『よく見るがよい。北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた』」。
・捕囚民の帰還問題は、現在でも大きな課題になっている。イスラエル建国を果たした原動力になったのはシオニズム運動であるが(イスラエルは紀元70年以降のユダヤ戦争の敗戦でパレスチナを追われ、放浪する(ディアスポラ)、19世紀の終わりから「シオン(エルサレム)に戻ろう」というシオニズム運動が加速し、第二次大戦後イスラエルが建国される(1948年)。1949年イスラエル首相ベングリオンがアメリカのユダヤ人青年に向かって大規模移民を訴えた時、アメリカ・ユダヤ委員会はそれを拒絶した。彼らは答えた「我々はアメリカ合衆国市民であり、断じて捕囚の民ではない」。現在、イスラエルに住むユダヤ人は480万人であるが、アメリカには580万人が住み、最大のユダヤ人人口を誇る。

2.幻に終わった戴冠式

・エルサレム神殿再建を励ますために、バビロンに住む残留民の代表が金銀を持参してエルサレムを訪れた。ゼカリヤは彼らから金銀を受け取り、王のための冠を作るように命じられる。
-ゼカリヤ6:9-10「主の言葉が私に臨んだ。『帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族から、贈り物を受け取りなさい。あなたはその日のうちに、ツェファンヤの子ヨシヤの家に入りなさい。彼らはバビロンから帰ったばかりである』」。
・その王冠は神殿完成の折、指導者ゼルバベルに戴冠されるものであった。当初のゼカリヤの預言では「ゼルバベルの頭に」と記されていたはずであるが、現在のゼカリヤ書では「大祭司ヨシュアの頭に」と訂正されている。ゼカリヤ時代には王就任を待望されたゼルバベルがその後の政変でいなくなったことの後代の修正であろうとされる。しかし、大祭司はあくまでも王の支えであり(「その王座の傍らに祭司がいて、平和の計画が二人の間に生ずる」)、王(若枝、メシア)ではない。
-ゼカリヤ6:11-13「銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。彼こそ主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて、平和の計画が二人の間に生ずる」。
・ゼルバベルはダビデ王家の血を引いており、神殿再建が進捗し、独立を期待する民の要望に応えて、イスラエル独立運動に走ったのであろう。しかし、ペルシャ支配下ではそれは許されず、ゼルバベルはペルシャにより、失脚(多分処刑)されたのであろう。故に王冠は神殿に置かれる。処刑されて死んだ以上、その人がメシアであったとはもう言えないからである。
-ゼカリヤ6:14-15「冠はヘレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意を記念するものとして、主の神殿に置かれる。遠方からも人々が来て、主の神殿の建築に携わる。こうして、あなたたちがひたすらあなたたちの神である主の声に聞き従うなら、万軍の主が私をあなたたちに遣わされたことを知るようになる」。
・このゼルバベルの挫折を思う時、イエスが処刑されたにも関わらず、「主、メシア」と呼ばれ続けたことの意味は大きい。新約学者ゲルト・タイセンは「亡くなった人の幻を見ることは多くの人が経験するだろうが、亡くなった人が神であったという信仰が生じることはない」と分析する。彼は2010年来日し、「史的イエスとケリュグマ、学問的構成と信仰への道」という題で講演した。その中でタイセンは、イエスの復活顕現について述べる。
-タイセンの講演記録から「復活顕現とは何か、何がそこで起こったのかを人は決して知ることが出来ない。しかし、12人が、あるいは11人が一緒に亡くなった一人の人の幻を見るということは大変稀なことだ。しかもそこにいたのは異なった態度の人々、ペテロはイエスを否認し、ヤコブはイエスに懐疑的であり、パウロは敵だった。そのような異なった態度の人たちが一致して幻を見るというのは当たり前ではない。私はそのようなことは起こるのであり、でっち上げではないと思う。さらに亡くなった人の幻を見ることは多くの人が経験するだろうが、そこで亡くなった人が神であったという信仰が生じることはない」。
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