すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1. 主の日の裁きを預言するゼパニヤ

・預言者は国家の危機の中で立てられる。前8世紀、ユダはアッシリアの侵略により国家滅亡の危機に追い込まれ、イザヤ、ミカ、アモス、ホセア等が預言者として立てられた。それから50年間、預言は途絶えたが、アッシリアの衰退、新しい世界帝国の台頭の中で、ゼパニヤが立てられる(紀元前640年頃)。彼はヒゼキヤ王(前715−687年)の血を引く王族であり、ヨシヤ王時代(前640−609年)に活動した。このゼパニヤの預言活動が後のヨシヤ王の神殿改革(前622年、申命記革命、列王記下23:1-3)をもたらしたと言われる。
−ゼパニヤ1:1「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である」。
・ヨシヤ王以前、ユダはアッシリアの植民地とされ、マナセ王(前687−642年)はアッシリアの祭儀を取り入れ、国中に異教礼拝が蔓延していた。異教礼拝の蔓延は政治の堕落、民の倫理の低下を招き、不正がはびこっていた。そのような時代にゼパニヤは主の裁きの日が来ることを預言して、社会に警鐘を鳴らした。
−ゼパニヤ1:2-6「私は地の面から、すべてのものを一掃する、と主は言われる。私は、人も獣も取り去り、空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ、人を地の面から絶つ、と主は言われる。私は、ユダの上とエルサレムの全住民の上に手を伸ばし、バアルのあらゆる名残とその神官の名声を祭司たちと共に、この場所から絶つ。屋上で天の万象を拝む者、主を拝み、主に誓いを立てながら、マルカムにも誓いを立てる者、主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ」。
・神殿で祭司たちは主に犠牲を捧げながら同時に偶像神バアルを拝み、民はアッシリアの天体神を崇め、アンモン人の偶像神マルカムをも拝んでいる。そのようなユダに裁きが下るとゼパニヤは預言する。
−ゼパニヤ1:7-11「主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し、呼び集められた者を屠るために聖別された。主のいけにえの日が来れば、私は、高官たちと王の子らを、また、異邦人の服を着たすべての者を罰する。その日、私は敷居を跳び越える者すべてを、主君の家を不法と偽りで満たす者らを罰する。その日が来れば、と主は言われる。魚の門からは助けを求める声が、ミシュネ地区からは泣き叫ぶ声が、もろもろの丘からは大きな崩壊の音が起こる。マクテシュ地区の住民よ、泣き叫べ。商人たちはすべて滅ぼされ、銀を量る者は皆、絶たれるからだ」。

2.主の日の預言

・指導者たちはアッシリアの祭服を着、民衆は神の支配を軽蔑して言う「主は幸いをも災いをも下されない」と。「そのような者たち(酒のおりのような者たち)を主は打たれるであろう」とゼパニヤは語る。
−ゼパニヤ1:12-13「そのときが来れば、私は燈火をかざしてエルサレムを捜し、酒のおりの上に凝り固まり、心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する。彼らの財産は略奪され、家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、住むことができず、ぶどう畑を植えてもその酒を飲むことができない」。
・平和が続き、衣食が満たされると、人々は神に対して無関心・無感動になる。「主は幸いをも災いをも下されない」とは、今日で言えば、「神などいらない」、「神なしで生きていける」という言葉になり、正に現代日本と同じである。1950年代70%の人が何らかの信仰を持っていたが、2005年には20%代に落ちている(各種世論調査総合、データブック現代日本人の宗教から)。その中で人々は心霊現象(江原啓之「幸運を引き寄せるスピリチュアリティ」)や、生まれ変わり信仰(飯田史彦「生きがいの創造」)等に生きがいを求めている。ゼパニヤ時代の人々と同じだ。主はそのような者たちを一掃される。裁きの日は近いとゼパニヤは預言する。
−ゼパニヤ1:14-18「主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい、角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。私は人々を苦しみに遭わせ、目が見えない者のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからだ。彼らの血は塵のように、はらわたは糞のようにまき散らされる。金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に、地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を、地上に住むすべての者に臨ませられる」。
・「救済信仰」と「スピリチュアリティ信仰」は何が違うのだろうか。救済信仰は罪を認め、悔い改め(メタノイア=方向を変える)、新しい生き方をするように求める。他方、スピリチュアリティ信仰は人格の変化は求めず、「そのままで救われる」とする。しかし、そのままでは救われない。人生はもっと深刻だからだ。それ故に危機になればスピリチュアリティ信仰は消え去り、救済信仰のみ残るのではないか。
-多くの現代人は、「今に忙殺され、将来を考えようとしない」。しかし彼らも、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時は平気ではいられない。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し、520名の方々が亡くなった。それから28年、遺族の方々は今なお慰霊登山を続ける。彼らにとって事故は終わっていない。また8月15日には今なお多くの戦没者遺族が靖国神社に詣でる。終戦から68年が経っても彼らの戦後は終わらない。また2011年3月11に起きた東日本大震災以降、「公共空間で宗教のプレゼンスが目立つ傾向が見られる」と報告される。被災地の地方都市では合同法要が行われ、復興祈願を込めた祭りや伝統芸能の集いに多くの人々が参集するようになった。大貫隆は言う「“カイロス”(今この時、神の時)が、生活者の“クロノス”(人間の時、日常の時)と衝突し、拒絶される」現実が、親しい者の死等の不条理を通して、「“カイロス”の意味を尋ね続ける」時に変わるのではないか。
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2013年10月23日祈祷会(ゼパニヤ2章、諸国民への裁きの告知)