すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1. 義人は信仰によって生きる

・前600年頃、預言者として立たされたハバククが見たのは、前612年にアッシリアという「悪」から解放されたユダが、3年後にはエジプトという新たな「悪」に苦しめられ、その悪が取り除かれたと思った前605年、今度はバビロニアという更に悪い「悪」に過酷に支配されるという現実だった。神は何故選民ユダをそんなにまで苦しめられるのか、ハバククは抗議した。その抗議に対して神が答えられた。それがハバクク2章である。
−ハバクク2:2-4「主は私に答えて、言われた『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」
・神はハバククに言われた「定められた時が来れば全ては明らかになる。その時を信じて待つ信仰を持て」。高慢な者は裁かれ、正しい者は生きる。しかしそれを知るためには時が必要である。前597年、ユダはバビロニアに征服され、指導者たちはバビロンに捕囚となった。しかし、前539年バビロニアはペルシャに滅ぼされ、捕囚のユダヤ人は帰国を許される。バビロニアは滅び、ユダは生き残った。預言は成就した。神の時間は人間には計れない。その時でも神を信じていくのが信仰なのだ。
−ヘブル11:1-13「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです・・・この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
・ハバククに与えられた言葉は板に記され、後代に伝えられ、新約時代のパウロはその言葉を基に、「人が救われるのは行いではなく、信仰である」ことを確信した。1500年後、ルターはこの言葉を手がかりに宗教改革を行った。
−ガラテヤ3:11「律法(行い)によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』(ハバクク2:4)からです」。

2.バビロニア滅亡の預言

・ハバククはユダ解放が挫折し、外国勢力(バビロニア)がユダを支配する中で、この言葉を聞き、バビロニアの滅亡を確信し、預言する。バビロニアの最盛期にその滅亡を預言する。彼は「まだ見ず、理解出来なくとも」信じた。
−ハバクク2:5-8「富は人を欺く。高ぶる者は目指すところに達しない。彼は陰府のように喉を広げ、死のように飽くことがない。彼はすべての国を自分のもとに集め、すべての民を自分のもとに引き寄せる・・・災いだ、自分のものでないものを増し加える者は。いつまで続けるのか、重い負債を自分の上に積む者よ。突然、お前の債権者が立ち上がり、恐れさせる者が目覚め、お前は彼らの獲物にされないだろうか。まことに、お前は多くの国々を略奪したので、諸国の民の残りの者すべてがお前を略奪する。お前が人々の血を流し、国中で不法を町とそのすべての住民に対して行ったからだ」。
・流血によって都を築き、不正によって町を立てるバビロニアよ。滅ぼされた者の告発の声が聞こえる。おまえの都バビロンは滅ぼされ、堅固な城壁は崩れ、名高い空中庭園も砂漠の廃墟となるとハバククは預言する。
−ハバクク2:9-14「災いだ、自分の家に災いを招くまで不当な利益をむさぼり、災いの手から逃れるために高い所に巣を構える者よ。お前は、自分の家に対して恥ずべきことを謀り、多くの民の滅びを招き、自分をも傷つけた。まことに石は石垣から叫び、梁は建物からそれに答えている。災いだ、流血によって都を築き、不正によって町を建てる者よ。見よ、これは万軍の主から出たことではないか。諸国の民は力を費やしても火で焼かれるのみ。諸民族はむなしい業のために疲れ果てる。水が海を覆うように大地は主の栄光の知識で満たされる」。
・隣人を苛むおまえたちは隣人から苛まれる。おまえたちは偶像の神々を拝むが、それらの木や石の神に何の力があろうか。主の前に沈黙せよとハバククは歌い上げる。同時代人のエレミヤはバビロニアを、ユダを戒める神の怒りの鞭ととらえ、その鞭を受けてのユダの悔い改めを求めた。他方、ハバククは圧制者バビロニアの滅亡を救いの時として預言して民の希望を鼓舞した。エレミヤは現在を見つめ、ハバククは歴史の彼方を見た。
−ハバクク2:15-20「災いだ、自分の隣人に怒りの熱を加えた酒を飲ませ、酔わせて、その裸を見ようとする者は。お前は栄光よりも恥を飽きるほど受ける。酔え、お前も隠し所を見られる。お前のもとに、主の右の手の杯と恥辱が、お前の栄光の代わりに回ってくる・・・お前が人々の血を流し、国中で不法を、町とそのすべての住民に対して行ったからだ。彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、また、偽りを教える者が何の役に立つのか。口の利けない偶像を造り、造った者がそれに依り頼んでも何の役に立つのか・・・見よ、これは金と銀をかぶせたものでその中に命の息は全くない。しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ」。
・ハバクク書は「世の中にはどうしようもない悪があり、その悪の世でどのように生きるべきか」を人々に求める。世の人々は「自分を救え」、「自分の力で立ち向かえ」、「それこそが人の生きる道ではないか」と言う。
−マルコ15:31-32「祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」。
・しかしイエスは言われる「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52)。強いバビロニアが滅び、弱いユダが生き残った歴史を知る者はイエスの言葉の正当性にかける。
-競灰螢鵐12:9-10「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。

*ハバクク2章参考資料 ホロコースト後の信仰(Faith after the Holocaust/Eliezer Berkovits)
(1935−1945年のナチス・ドイツ下で600万人のユダヤ人が殺された(大量殺戮=ホロコースト)。その後、アメリカ在住のユダヤ教神学者を中心にその意味を神学的に問うホロコースト後の神学が展開された。以下はその代表的な神学者ベルコビッツの著作の前書きの一部である)

・「私は信じる(アニマミン)」と唇に唱えて、ガス室の中へと歩いて行った「聖なる者たち(コドシーム)」(レビ記11:14)の記憶を前に私は畏怖する。彼らが疑問を持たなかったのに、何故私が疑問を持てようか。彼らが信じた故に私も信じる。そして私はまた、無辜の人々の語り得ぬ苦悩の記憶の故に、信仰を持たずにガス室へと歩いて行った「聖なる者たち(コドシーム)」を前に、畏怖に打たれる。何故ならば彼らは人間が耐えることの出来る以上のことを負わされたのだ。彼らはもはや信じることが出来なくなった。そして私も今信じることが出来ない。私は彼らの信仰喪失を理解出来る。事実、強制収容所の中での信仰の喪失は、信仰の維持や確認よりも容易に理解出来る。その環境の中では信仰の確認は超人間的であり、他方信仰の喪失は人間的である・・・信仰は聖である。しかしまた強制収容所の中では、懐疑や宗教的拒否も同じように聖である。
・その懐疑は理性の問題ではなく、信仰が砕かれ、散らされ、粉々になったのであり、無数の殺された信仰は聖なる懐疑である。そこにいなかった者で、ホロコーストを神の業として受け入れる者は、殺された者たちの聖なる懐疑に疑問を持ち、汚してはいけない。そしてそこにいなかった者たちは、懐疑者たちの群れに加わって、信仰者たちの聖なる信仰を汚してはいけない。
・私たちはヨブではない。私たちはヨブのようには話せないし、応答できない。私たちは信じなければならない、何故なら兄弟ヨブは信じたからである。私たちは疑問を持たなければならない、何故なら兄弟ヨブはたびたび信じることが出来なくなったからだ・・・これがホロコーストの時代後の私たちの状況である。私たちはただ戸口に立ち尽くすことしか出来ない。この戸口から私たちは押し入り、ホロコーストへの十分な応答を為すための突破口が開ける。それはヨーロッパで地獄の中にあったユダヤの人々の、「聖なる信仰」、また「聖なる信仰喪失」を冒涜するものであってはならない。そしてもし突破口がなければ、誠実な方法は戸口に留まることである。満腹した社会のテーブルの上にあるものを食べている人々の、無神経な信仰のごまかし、または懐疑のたわごとを通して平和を見出すよりも、答えなしに生きる方がましである。
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