すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨナ書  >  2013年7月4日祈祷会(ヨナ4章、妬む目)
1. ニネベの悔い改めを喜べないヨナ

・ヨナは「ニネベに行って悔い改めを伝えよ」との神の命令に従い、「悔い改めの預言」を行う。その結果ニネベの人々は悔い改め、神はニネベに下すと言われた裁きを止められた。私たちの信じる神は「罪人の悔い改めを喜び、裁きを取り止められる」神である。何故なら裁きは救いのためになされるからだ。
−ヨナ3:10「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いを下すのをやめられた」。
・ヨナにとってニネベとは暴虐の国、神の国を苦しめる悪の帝国(ヨナの属する北イスラエルは前722年アッシリアに滅ぼされる)、悪を滅ぼすことこそ、神の正義ではないかとヨナは思っていた。だから、いやいやながらニネベに宣教したが、彼らの悔い改めと救済を喜べない。
-ヨナ4:1-3「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた『ああ、主よ、私がまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よ、どうか今、私の命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです』」。
・人は危機敵状況に際して回心するが、危機が去れば信仰はそれと共に衰える。いつの間にか、相応しくないのに救われたことを忘れ、相手が「救いに相応しくない」と言い始める。それを神はヨナに諭される。
-ヨナ4:4「主は言われた『お前は怒るが、それは正しいことか』」。

2.ヨナに愛のあり方を教えられる神

・神はそのようなヨナに具体的出来事を通して、愛のあり方を教える。最初に、暑い日差しの中に座るヨナに、とうごまの木を与えて日陰を楽しませる。
-ヨナ4:5-6「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」。
・次に神は、このとうごまの木を枯らすことによって、再び暑い日差しの苦痛を味あわせる。
-ヨナ4:7-8「ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので、木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った『生きているよりも、死ぬ方がましです』」。
・神はとうごまの木が枯れて怒るヨナに、「お前は正しいのか」と問われる。
-ヨナ4:9-10「神はヨナに言われた『お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか』。彼は言った『もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです』。すると、主はこう言われた『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びた、このとうごまの木さえ惜しんでいる』」。
・「とうごまの木さえ惜しむお前が、何故ニネベの12万人の人を惜しむ私の気持ちを理解しないのか」と神はヨナに問いかけられて、この物語は終わる。
-ヨナ4:11「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。

3.この物語は何を教えるのだろうか

・ヨナの物語は、直接的には、捕囚から帰還後、異教徒の排斥を唱えた偏狭な民族主義を揶揄するものであろう。ヨナ書が書かれたのは紀元前3-4世紀頃と言われる。
-エズラ記10:10-12「祭司エズラは立ち上がり、彼らに言った『あなたたちは神に背いた。異民族の嫁を迎え入れて、イスラエルに新たな罪科を加えた。今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主の御旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい』。会衆はこぞって大声で答えた『必ずお言葉どおりにいたします』」。
・神学的には、この問題は予定説と万人救済説の論争として現れる。予定説では「キリストは選ばれた者のためだけに死なれた」とし、万人救済説は「キリストはすべての人のために死なれた」と考える。ヨナ書が教えるのは予定説の偏狭性ではないだろうか。
-万人救済説「キリスト教信仰の有る無しに関わらず、すべての人が神の憐れみによって救済を受けるという信仰。イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させるとする。万人救済の教理は初代教会においては当然とされたが、教会の成長に伴い否定されていき、今日では非主流の考え方になっている(古代にはオリゲネスの思想に見られ、近代のカール・バルトも万人救済を唱えたとされている。今日、メソジスト派、バプテスト派の一部がこの考え方を持つ)。正統とされてきた神学はアウグスティヌスらが唱え、カルヴァンが継承した排他主義である(カルヴァンの予定論は異教徒の救いを否定する)。今日でも、福音派は万人救済に反対し、永遠の地獄の教理を弁護する。日本福音同盟はリベラル派(エキュメニカル派)の万人救済主義を異端として退ける。
・悪人や異教徒の救いを喜ばない私たちは、イエスが「ぶどう園の労働者の喩え」で指摘された「妬む目」を持っているのではないか。私たちは教理から解放され、聖書の教えるところをもっと見つめるべきではないか。
-マタイ20:13-15「主人はその一人に答えた『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも私の気前のよさを妬むのか』」。

*ヨナ4章参考資料 妬む目(2013年2月17日説教、マタイ20:1-16、「この最後の者にも」から)
・マタイ20章「ぶどう園の労働者の喩え」では、最初に賃金を受け取ったのは最後に雇われた労働者たちでした。主人は「1日1デナリ」の約束で労働者を雇いましたが、夕方の5時から1時間しか働いていない労働者にも1デナリを払います。この主人の気前の良さが、最初に雇われた人々の期待を膨らませました。「1時間で1デナリであれば12時間働いた我々はもっと貰えるだろう」と彼らは思いました。しかし彼らに支払われたのも1デナリでしたので、不満が爆発します「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)。
・朝から働いた人たちが最初に1デナリの支払いを受けていれば、それは約束通りであり、彼らは満足して家に帰ったでしょう。しかし1時間しか働かなった人が1デナリを受け取った事実を知った今は、約束通りの1デナリでは満足出来ません。主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリを支払ったのでしょうか。それは1デナリがないと労働者とその家族は今日のパンが買えないからです。それは生きるための最低賃金なのです。「最後の者も生きるために必要なものは与えられる」、それが神の国の経済論理です。
・この主人の慈しみが人間をつまずかせます。丸一日働いて文句をいう人々に主人は言います「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさを妬むのか」(20:14b-15)。「妬む」、原語では「悪い目」です。自分の財産や権利を守るために、私たちが自分の周りに張り巡らしてしまう視線のことです。最初の労働者はこの世的な公平を求め、1時間労働者の賃金が12分の1デナリであれば満足したことでしょう。その結果、1時間労働者が今日生きるためのパンを買うことが出来なくとも、それは彼等の関知するところではない。この悪い目、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目こそ、神が忌み嫌うものです。
・イエスは「あなた方の天の父は、職を求めて朝から広場にいたのに誰も雇ってくれなかった、その悲しさや苦しみを知り、そこに救いの手を伸ばして下さる方だ」と言われます。「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」のです。「この最後の者にも」、経済学者のジョン・ラスキンはこの譬えを基に資本主義経済を批判した著作「Unto The Lastこの最後の者にも」(1860年、岩波文庫訳)を発表しました。現代社会の不幸を救済するために神の国の経済学を導入すべきであると主張です。彼の経済学は「人間を幸せにするための経済学」と言われています。それを読んだマハトマ・ガンジーがそれまでの資本主義や社会主義とも違った、「人間の心の変革を起こす」独自の改革思想に目覚めた契機になったと言われています。マタイ20章は現代社会のあり方に警告を発する神からのメッセージであり、同時に私たちの悲しみや苦しみは決して無駄ではないという喜ばしい福音を伝えるものなのです。
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