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トップ  >  オバデヤ書  >  2013年6月6日祈祷会(オバデヤ1章、人類の歴史を支配される神)
1. 人類の歴史を支配される神

・オバデヤ書は旧約で最も短い預言書である。内容的にはエドムに対する託宣(1:1-18)、主の日の預言(1:16-18)からなる。ユダ王国がバビロンから攻撃され、エルサレムが陥落した時に、エドムのとった許しがたい行為が列挙され、その裁きが預言されている。預言の時期は前587年の後、哀歌が書かれたのと同じ頃であろう。最初にエドムの滅亡が預言される。エドムは山地にあり、自分たちが滅ぼされることはないと高をくくっていた。
−オバデヤ1:1-4「オバデヤの幻。我々は主から知らせを聞いた。使者が諸国に遣わされ『立て、立ち上がってエドムと戦おう』と告げる。主なる神はエドムについてこう言われる『見よ、私はお前を諸国のうちで最も小さいものとする。お前は、大いに侮られる。お前は自分の傲慢な心に欺かれている。岩の裂け目に住み、高い所に住みかを設け、誰が私を地に引きずり降ろせるかと心に思っている。たとえ、お前が鷲のように高く昇り、星の間に巣を作っても、私はそこからお前を引き降ろす』と主は言われる」。
・オバデヤ1:1-4はエレミヤ書49:14-16とほぼ同じ内容である。エレミヤ書は45章で実質的に終わり、46章以下は後代の編集と言われているので、編集過程でオバデヤ書が引用されたと思われる。エドムはエルサレムの陥落に乗じてエルサレムに侵攻した。その恨みはイスラエルの民族的怨念となっている。
-詩篇137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを、エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで』」。
-哀歌4:21-22「娘エドムよ、喜び祝うがよい、ウツの地に住む女よ。お前にもこの杯は廻って来るのだ。そのときは、酔いしれて裸になるがよい。おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない。娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。お前の罪はことごとくあばかれる」。
・オバデヤが求めるのはエドムに対する徹底した裁きである。私たちが裁かれて国を滅ぼしたように、今度はエドムよ、お前たちが亡国の悲しみを味わうのだと。
-オバデヤ1:5-9「もし、盗人がお前のところに押し入り、夜の侵略者が来れば、いかに、お前は痛めつけられることか。彼らは欲しいだけ盗んで行くではないか・・・いかに、エサウの富は探し出され、宝は奪い取られることか・・・お前の盟友がお前を欺き、征服する。お前のパンを食べていた者が、お前の足もとに罠を仕掛ける。それでもお前は悟らない。その日には必ず、と主は言われる。私はエドムから知者を、エサウの山から知恵を滅ぼす。テマンよ、お前の勇士はおびえる。彼らは一人残らず殺され、エサウの山から取り去られる」。
・ここではエドムがエソウ(ヤコブの兄)と呼ばれる。エドム人はイサクから別れたイスラエル(ヤコブ)の兄弟国で、その国は南部の山地(エドムは今のヨルダン、ペトラがその首都だったといわれている)にあった。その兄弟国がユダを撃った、それは兄弟殺し、カインの罪ではないかとオバデヤは告発する。
-オバデヤ1:10-11「兄弟ヤコブに不法を行ったので、お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。お前が離れて立っていたあの日、異国の者がエルサレムの財宝を奪い、他国の者がその門に入り、エルサレムをくじ引きにして取ったあの日に、お前も彼らの一人のようであった」。

2.報復を超えて

・しかしオバデヤ書は単なる復讐の預言ではない。「主が裁かれる」、人類に歴史における不正、不義に主が介入されるという信仰を語ったものだ。審判とは正義の実行である。イスラエルは罪を犯した故に裁かれた(ヤコブの家=北イスラエル、ヨセフの家=ユダ)。今エドムも罪を犯した故に裁かれるとオバデヤは預言する。
-オバデヤ1:16-18「お前たちが、私の聖なる山で飲んだように、すべての国の民も飲み続ける。彼らは飲み、また呑み尽くす。彼らは存在しなかった者のようになる。しかし、シオンの山には逃れた者がいて、そこは聖なる所となる・・・ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなるとまことに、主は語られた」。
・ヨエルは主の裁きの日に私たちも加わろうと呼びかけた(ヨエル4:9-10)。しかし、オバデヤは主の裁きを待て、主は最善を行われると預言する。
-オバデヤ1:19-21「彼らは、ネゲブとエサウの山、シェフェラとペリシテ人の地を所有し、またエフライムの野とサマリアの野、ベニヤミンとギレアドを所有する。捕囚となったイスラエル人の軍団は、カナン人の地をサレプタまで所有する。捕囚となった、セファラドにいるエルサレムの人々は、ネゲブの町々を所有する。救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる」。
・「王国は主のものとなる」、それは「御国を来たらせたまえ」という祈りと同じだ。パウロはそれを発展させ、「復讐は主に委ねよ、自分の手で報復するな」と語った。「自分の手で報復しない。正義の実現は主に委ねる」、これこそが平和をもたらす唯一の方法だ。それは「殴り返すな」と言われたイエスの心の継承だ(マタイ5:39)。
-ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』(申命記32:35)と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』(箴言25:21-22)。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・同じ時期に書かれた哀歌は、恨みを相手に向けるのではなく、自分の罪を見つめよ、そこに救いが有ると教える。報復は良いものを生まないが、悔い改めは新しい命を生む。
-哀歌3:28-33「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。

*オバデヤ書参考資料 「父よ、彼らを赦したまえ -真珠湾からゴルゴダへ」
淵田美津雄・元真珠湾攻撃隊長の証し・要約(「百万人の福音」いのちのことば社、1995年8月号)

・そのころ私は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、私はこれを勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていたのです。するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。私は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話を聞き、心を打たれました。
・この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」。両親が日本軍隊によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と私は膝を乗り出しました。
・話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予をください」そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬につきました。やがて、事の次第はアメリカのお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。私はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。
・私も聖書を読んでみようと思い立ち、早速、聖書を買い求めて、あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカ福音書23章34節、「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」のところで、私はあのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。これは十字架上からキリストが、自分に槍をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる博愛、今こそ私はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」。私は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬を伝いました。私はゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。
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