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・「コヘレト」は特定の個人名ではなく、今日でいうなら大学教授並みの知的レベルがあり、集団を指導する力を備え、かつ人々から尊敬を受けられるほどの人物をさすと考えられている。王の一人であったという説もあるが決定的ではない。なおコヘレトは「伝道者」を意味し、そのため古くは「伝道の書」と呼ばれた。
−コヘレト1:1−2「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」
・「エルサレムの王、ダビデの子」と書き始められているので、伝統的にソロモン王が著者と信じられてきたが、後の研究で否定された。ソロモン王在世は前十世紀であるが、この書の使用言語から成立年代を、前五世紀以前とすることは不可能である。本書にはアラム語の影響と、さらにペルシャ語の影響もあり、これらは前五世紀以前ではありえない。というのが否定の理由である。本書は「空の論理」が基本になっているのが特色である。
−コヘレト1:3−7「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、巡りめぐって吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
・コヘレトは地上の生命の営みを無意味な繰り返しと感じている。しかし、日は昇り、日は沈み、また昇りまた沈み、風は吹き巡り、また吹き返し、川が海に注ぎ、天に昇り雨となり、また川となり海へ注ぐ。それらは生命の鼓動であっても、無意味な繰り返しではない。自然の中で神の臨在を示し、神の栄光を顕しているのである。
−詩編19:2−5「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくとも、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。そこに神は太陽の幕屋を設けられた。」
−コヘレト1:8−11「何も彼も、もの憂い。語り尽すこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。かってあったことは、これからもあり、かつて起ったことは、これからも起こる。太陽の下、新らしいものは何一つない。見よ、これこそ新らしい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前からあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心には留めはしまい。」
・コヘレトを悲観主義者だと決めつける前に、まず彼の言い分を聞かねばならない。はたしてコヘレトの言うように、太陽の下、新しいことは、何一つなしとできるのだろうか。むしろ現代では新しいことが常に起こっている。未曾有の自然災害があり、数々の科学上の新発見もある、日々報道されるそれら緒々により我々は飽きることがない。
−コヘレト1:10−14「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽して調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」
・コヘレトは自らを「王」と称して重々しく語り始める。彼は並々ならぬ探究心を持ち、地上に起こるすべての出来事を調べた。しかし、その努力は報われず、彼は退屈し空しさに悩んでいる。もし彼が貧しい民であったなら、早朝から夕方まで働いて、やっとその日の糧を得ることになる。貧しい民は退屈している暇はない。だとすると、「空の論理」は当時の庶民を含めた普遍的論理とは言えないのではないか。
−コヘレト1:15−17「ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない。わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなる者となった』と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ.これも風を追うようなことだと悟った。」
・歪んだものは直らない、欠けたものは数えられない、一度定まったものは変えられないとすればそれは運命だろう。しかし、神の御業は変えられないとするなら意味は全く違う。
−コヘレト1:18「知恵が深まれば悩みも深まり、知識も増せば痛みも増す。」
・知ることが多ければ悩みも多くなるといい、知恵が多いと悩みが少なくなる、と言わないのはなぜか。こう考えられないだろうか。問題は彼の知識を越えた、やっかいなものであり、彼は彼の全知識を振り絞っても解決できなかったのではないかと。
−詩編37:23−25「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。若いときにも老いた今も、わたしは見ていない。主に従う人々が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。」
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2013年3月27日祈祷会(コヘレトの言葉2:1−25、快楽も冨も空しい)