すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2013年2月7日祈祷会(ヨブ記39章、被造物を生かし続ける神)
1. 被造物を生かす摂理についてお前は何を知るか

・ヨブ記は38章から神の言葉が始まり、38章後半から39章にかけて神の言葉の第二弾が始まる。ここでは動物の世界に見られる自然世界の不思議さが語られ、人間本位にしか世界を見ることの出来ないヨブに悔い改めが迫られる。最初に展開されるのは、獅子や烏がどのように生かされているかの不思議さである。
−ヨブ記38:39-41「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れがにうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき」。
・獅子は動物を食べ、烏は死肉を漁る。彼らの犠牲になる動物たちが「獅子の犠牲になって殺されるのは不合理であり、不条理だ」と叫ぶか。叫ばないだろう。それが自然の摂理なのだ。しかし「お前、ヨブは自分の名誉が傷つけられたと叫んでいる。お前の見方はあまりにも人間中心主義ではないのか。お前は山羊や牝鹿の出産の場に立ち会っているか。私は立ち会っている」と神はヨブに迫る。
−ヨブ記39:1-4「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか・・・雌鹿はうずくまって産み、子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち出ていくともう帰ってこない」。
・お前は野ろばを生かす私の働きを知っているか、お前は野牛の生態について何を知っているか。彼らは僅かな食料を求めてお前たちの家畜にはなることはなく、私によって野に生かされている。そのことを知っているか。
−ヨブ記39:5-10「誰が野生のろばに自由を与え、野ろばを解き放ってやったのか。その住みかとして荒れ地を与え、ねぐらとして不毛の地を与えたのは私だ・・・野牛が喜んでお前の僕となり、お前の小屋で夜を過ごすことがあろうか。お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ、お前に従わせて谷間の畑を掘り起こさせることができるか」。

2.駝鳥や馬や鷲を生かすものは誰か

・13節から駝鳥の生態が語られる。駝鳥は卵を生んでもそれを放置し、自然のままに委ねる。それでも彼らは絶滅しない。何故だと思うか、私が生かしているからだと主なる神は言われる。
−ヨブ記39:13-18「駝鳥は勢いよく羽ばたくが、コウノトリのような羽毛を持っているだろうか。駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている・・・神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。だが、誇って駆けるときには馬と乗り手を笑うほどだ」。
・お前たちは野生の馬を飼い慣らし、戦争のために用いるが、彼らに力と勇気を与えたのは誰か。彼らはお前たちのために創造されたのか。お前たちは「人間こそ創造の中心であり、他の被造物は全て自分たちのために創られた」と思っているが、本当にそうか。「お前が世界の中心なのか、しかしお前は何も知らないではないか」。
−ヨブ記39:19-24「お前は馬に力を与え、その首をたてがみで装うことができるか。馬をいなごのように跳ねさせることができるか。そのいななきには恐るべき威力があり、谷間で砂をけって喜び勇み、武器に怖じることなく進む。恐れを笑い、ひるむことなく、剣に背を向けて逃げることもない。その上に箙が音をたて、槍と投げ槍がきらめくとき、身を震わせ、興奮して地をかき、角笛の音に、じっとしてはいられない」。
・最後に鷹と鷲が語られる。鷹は時期が来れば移動し、鷲は高い空を飛び、その雛に餌を与える。それはお前がしているのか。鷹や鷲さえも生かしているのは私ではないのか。
−ヨブ記39:26-30「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのはお前が分別を与えたからなのか。鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか。鷲は岩場に住み、牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。その上から餌を探して、はるかかなたまで目を光らせている。その雛は血を飲むことを求め、死骸の傍らには必ずいる」。
・被造物を生かされる神に感謝し、信頼して生きる。イエスもそのような生き方を求められた。
−マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。
・自然世界の摂理を見た時、自分一個の善悪や、正しさにこだわるのは、あまりにも人間中心の世界観であり、神の思いは人間を超える。こう言われた時、ヨブは引き下がるしかない。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。

*ヨブ記39章参考資料「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」を読む

・幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)が,ヨブ記を例にとりながら,神とはなにか、信仰とは何かを問うた著である。不幸なことがあると,その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかなどと私たちは考える。「罰が当たった,天罰だ」と。あるいは逆に「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思ったこともあろう。しかし著者は,この世に起こる不正義,悪,不条理な出来事は,単なる自然,物理法則によるものであり,神に起因するものではないと断言する。
・ヨブ記では、神自身がこの世で正しいと認めているヨブが何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされる。3人の友人が、それぞれにヨブを元気付けようとして繰り広げる説明は、神は「善にして全能の神のなさることに間違いはない」と。しかし、ヨブは納得しない。逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責める。友人たちは最後にはヨブが神に対して罪を犯したと言って責める。ヨブは神に対して説明を求める。そして最後に神は答える。その最初に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たち、「善にして全能の神」のすることに間違いはないという主張をし続けた人たちへの断罪である。
・本著の著者は、ヨブ記が示すものを三つの命題として提示する。
(1)神は全能であり、世界で生じる全ての出来事は神の意志による。神の意志に反しては何事も起こらない。
(2)神は正義であり、公平であって、人間それぞれに相応しいものを与える。善人は栄え、悪人は滅びる。
(3)ヨブは正しい人である。
・ヨブ記ではこの三つの命題が対立を成す構図を取っていると著者は説明する。何も問題がない時にはこの三命題は共存しうる。しかし何かが起きた時には、どれかを捨てるしかない。3人の友人たちは命題(1)と(2)を守る為に最終的に(3)ヨブの正しさを切り捨てた。神が全能であり、公平であるならば、苦難はヨブの罪としか思えない。
・しかしヨブ記では、(3)の命題は最初に神自身が保証しており、これはヨブ記の読者から見れば明らかな間違いなのである。ヨブは自分が不幸のどん底に落とされる程、自分が悪人だとは思っていない。従って命題(3)は捨てられない。そしてヨブは命題(1)を信じている。この為、ヨブは結果として命題(2)神の正義を疑わざるを得ない。だから神に説明を求めている。
・著者は、この2視点を俯瞰しているヨブ記の記者は、このどちらの見方も否定していると考えている。ヨブ記の記者が神に最後に語らせた神の創造の業の話は、命題(1)神の全能が間違っていることを示すものだと考えるのである。著者は自身の善や正義の為の摂理によって不条理な事件・事故・病気で多くの人々を死なせる神など信仰するに値しないと断言する。それは、ただの独裁的で横暴な神でしかない。
・著者の信じる神は正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる。不条理は神が人の罪に対して起こす罰や、人知では計り知れない神の摂理で起こる事柄ではない。ただ不条理な事象として起こる。神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができないのだと考える。著者は神の力は他のいかなるものよりも大きいが、論理を矛盾させたことまでできるわけではないし、この世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行するような独裁的専制君主などではないと認識しているのである。
・神は混沌に秩序を与えるために世界を創造された(創世記1:1-3「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた「光あれ」。こうして、光があった」)。神の創造は今も行われている。つまり、混沌がまだ残されている。その混沌を私たちは「不条理」と呼ぶ。著者は言う「病人や苦痛に苛まれている人が「一体私がどんな悪いことをしたというのか」と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは「こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか」である」。
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