すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2013年1月17日祈祷会(ヨブ記36章、エリフの最終弁論)
1.エリフの四度目のヨブ批判

・ヨブ記には32章から突然エリフが登場する。エリフは32〜37章で彼の持論(神の正しさ、人間の卑小さ、その中における苦難の意味)を語る。36〜37章はそのエリフの最終弁論だ。エリフは持論を繰り返す「神の摂理は人間の理解を超える。ただ神はいつも人を見ておられ、人それぞれの業に応じて報われる」と。
−ヨブ記36:5-10「まことに神は力強く、たゆむことなく、力強く、知恵に満ちておられる。神に逆らう者を生かしてはおかず、貧しい人に正しい裁きをしてくださる。神に従う人から目を離すことなく、王者と共に座につかせ、とこしえに、彼らを高められる。捕われの身となって足枷をはめられ、苦悩の縄に縛られている人があれば
その行いを指摘し、その罪の重さを指し示される。その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される」。
・エリフの考え方は旧約に共通する。正統主義神学の神は「正しい者に祝福を、悪しき者に処罰を与えられる」である。次の言葉はまさに正統主義神学の言葉である。
−ヨブ記36:11-14「もし、これに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いのうちに、年月を恵みのうちに全うすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。神を無視する心を持つ者は、鎖につながれていても怒りに燃え、助けを求めようとしない。彼らの魂は若いうちに死を迎え、命は神殿男娼のように短い」。
・しかし現実はそうではない。そこにヨブの苦しみがある。人は苦難に意味を認める限り、その苦難を耐えていける。しかし、苦難の意味がわからなくなった時、その苦難は人を圧倒するようになる。エリフはそれが理解できない。
−ヨブ記9:22-24「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」。

2.苦難の意味

・エリフは、苦難は「神が人を教育するためにある」という。苦難にそういう一面があることはその通りだろう。彼が言うように「神は苦難を通して人の耳を開かれる」のは事実だ。
−ヨブ記36:15-16「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。
・しかし同時に不条理としか言いようがない苦難があることも事実だ。私たちは苦難を抽象化してはいけないのではないか。その時にはヨブのように神を告発しても良いのではないか。
−ヨブ記31:35-37「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。 私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」。
・エリフは言う「苦難にあった時には、あなたの中に原因があるのだから、悔い改めて神を求めよ」と。
−ヨブ記36:17-21「あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう。だから注意せよ、富の力に惑わされないように。身代金が十分あるからといって、道を誤らないように。苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのはまさにこのためなのだ」。
・エリフのように苦難を抽象化した時、それは神議論ではなく、人議論になってしまう。
−カウンセリングの立場から見たヨブ記「最近のヨブ記研究の中に、カウンセリングの立場からの見方がある。カウンセリングにおいて最も重要なことは、相手との関係の樹立であり・・・ドグマや固定化したアプローチの仕方は逆に相手に大きな痛手を負わせてしまう。ヨブの3人の友人たちは、キリスト教のドグマと既成概念に立って真の援助を与えることに失敗する牧師のようなものである。彼ら3人は・・・どこまでも応報主義の立場に立ち、その原則から一歩も出ようとしない。エリファズの態度は逆にヨブを傷つけ、怒らせた。それは肉体の苦しみに加えて、精神的な攻撃であるように感じられたのである・・・ビルダデはすべてを簡略化するタイプで、カウンセリングの基本姿勢として不適当である。さらにツォファルは,自分の感情をむき出しにするというカウンセラーとしては最も不適当なタイプを示している。3人の友人たちの弁論は,結果から見れば,沈黙のうちに共に居た方が、はるかにまさっていたことを示している」。

*人生における苦難の意味
・神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と運命を与えられる。
−ある人は健康に生まれ、別の人はそうでない。
−ある人は金持ちであり、ある人は家が貧しくて学校にいけなかった。
・私たちにはそれが何故か、理解できない。理解できなくとも、それはそれで良いのであって、私たちは自分に与えられた運命の中で精一杯生きれば良い。それが現実を見つめる「平静さ」という勇気だ。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知る。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知る。ヨブは人間に絶望した。その絶望の中で、この暗闇もまた神の支配下にあり、苦しみが神と出会うために与えられたことに気がついた。
−ヨブ記19:25―27「私は知る、私をあがなう者は生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」
・神は悔改めたヨブを赦される。いや、むしろ、ここまで神に問いかけたヨブを評価される。他方、自分たちの信念だけを述べて、ヨブの苦しみに関わろうとしなかった三人の友を責められる。傍観者は有害無益なのだ。
−ヨブ記42:7「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった『私はお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ』。
・私たちが「何故」と聞くのを止めて、「何処へ」と聞き始めたとき、苦しみは恵みになる。ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知る。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなった。人は苦しみや悲しみを通じて、神に出会う。そして、神との出会いを通じて平安が与えられる。
−競灰螢鵐7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。
・このことに気づくために、私たちに苦難が与えられるのではないか。試練は神から来る。苦難の中で、私たちは神と出会う。この苦しみを経験しないと本当の喜びはないのではないかと思う。病気のために生涯寝たきりの人生を送った、水野源三さんは次のような歌を歌う
−「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。
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