すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年12月20日祈祷会(ヨブ記32-33章、苦難に意味があるのか)
1.エリフの登場

・ヨブと三人の友人たちの議論は31章で終わり、38章から神の言葉が始まる。しかし、現在のヨブ記では32〜37章にエリフの弁論が挿入される。エリフは31章前には記述がなく、また38章後にも登場しないことから,多くの注解者はこの32〜37章は後代の編集者(おそらくは正統主義神学に立つ人々)が,あまりにも急進的なヨブの神学(応報論の否定)に対して、全体を緩和するために挿入したものと見ている。当祈祷会でもその立場に立ち、弁論の大意のみを追っていきたい。最初にエリフは三人の友人たちが言葉を失った故に,彼らを支援するために議論に加わると述べる。
−ヨブ記32:11-17「私はあなたたちの言葉を待ち、その考えに耳を傾け、言葉を尽くして論じるのを聞き、その論拠を理解しようとした。だが、あなたたちの中にはヨブを言い伏せ、彼の言葉に反論しうる者がない・・・彼らは気を挫かれて、答えようとせず、言うべき言葉を失っている。私は待ったが、彼らは語らず、行き詰まり、もう答えようとしない。それなら私が自分の言い分を述べさせてもらおう。私の意見を言わせてもらおう」。
・エリフの具体的弁論は33:6から始まるが,彼は明らかに三人の友人たちと同じ応報論の立場に立つ。彼にとって「自分は正しい,神は自分を敵とされている」というヨブの主張は瀆神的であり、我慢がならないものだった。
−ヨブ記33:8-12「あなたが話すのは私の耳に入り、声も言葉も私は聞いた。『私は潔白で、罪を犯していない。私は清く、とがめられる理由はない。それでも神は私に対する不満を見いだし、私を敵視される。私に足枷をはめ、行く道を見張っておられる』。ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます」。
・「神は人よりも大なる方であり、被造物であるあなたが何故創造主である神と争うのか。そこにあなたの根本的な間違いがあるのではないか」とエリフはヨブを追求する。
−ヨブ記33:13-18「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる。人が行いを改め、誇りを抑え、こうして、その魂が滅亡を免れ、命が死の川を渡らずに済むようにされる」。

2.苦難を神の教育とみるエリフの議論

・エリフの言葉は,エリフが「苦難は神が教育のために人に与えられる」と理解していることを示す。エリフはヨブに与えられた業病(らい病)もそのようなものだと理解している。
−ヨブ記33:19-25「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。肉は消耗して見えなくなり、見えなかった骨は姿を現し、魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく。千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、 彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう」。
・応報論に立つエリフは悔い改めて神に立ち返れば,神は救ってくださると信じ,ヨブにもそう伝える。
−ヨブ記33:26-30「彼は神に祈って受け入れられ、歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ、再び神はこの人を正しいと認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。『私は罪を犯し、正しいことを曲げた。それは私のなすべきことではなかった。しかし神は私の魂を滅亡から救い出された。私は命を得て光を仰ぐ』と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」。
・「苦難により、人の心が低くされ、心が砕かれて、人は神に立ち返る」という考え方は新約にもある(ヘブル12:4-12)。それは真理の一端を示すのであろう。しかし、現実には「癒されない病があり、回復されない不条理」がある。それを私たちはどのように理解したら良いのだろうか。心理学者の加来周一は書く「答えのない不条理があるのではないか。その時、人はその不条理を答えのないままに受容していくことが求められるのではないだろうか」。ヨブ記のテーマは正にそうであり、ヒトラーに抵抗して殺されたボンヘッファーの経験もそれを教えるのではないか。
−D.ボンヘッファー・獄中書簡(1944年7月16日の手紙)から「我々が成人したという状況は、神に面と向かっての我々の姿を真に認識させるものである。神なしに結構うまくやっていける人間たちとして我々が生きねばならないことを、神は我々に教えておられるのである。我々と共におられる神は、我々を棄てる神である(マルコ15:34)。役立つ仮設として神を用いることなしにこの世に我々を生きさせるところの神こそ、我々がその前にいつも立っているところの神である。神の前に、そして、神とともに、我々は神なしで生きる。神はご自分がこの世からだんだんと追い出されて、十字架にかけられてしまうのをお許しになるのである。神はこの世においては、弱く力なき方である。そして、そういう仕方においてだけ実は、神は我々ともにあることができ、我々を助けることができるのである」。
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