すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年10月25日祈祷会(ヨブ記23章、神はどこにおられるのか)
1. ヨブの嘆き

・ヨブの友人エリパズは言った「もし、全能者のもとに立ち帰り、あなたの天幕から不正を遠ざけるなら、あなたは元どおりにしていただける」(22:23)。それに対してヨブは答える「私もそうしたい。でもどこに行けば神と出会えるのか」。ヨブ記23章は神を求めても見いだせない信仰者の苦悩に焦点を当てる。
-ヨブ記23:2-3「今日も、私は苦しみ嘆き、呻きのために、私の手は重い。どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか」。
・ヨブは神にあって彼の苦しみを思う存分申し述べたいと願う。そうすれば彼が無実であることが明らかになると信じるからだ。ヨブには良心に恥じるところはない。
−ヨブ記23:4-7「その方に私の訴えを差し出し、思う存分私の言い分を述べたいのに。答えてくださるなら、それを悟り、話しかけてくださるなら、理解しよう。その方は強い力を振るって、私と争われるだろうか。いや、私を顧みてくださるだろう・・・私は神の前に正しいとされ、私の訴えはとこしえに解決できるだろう」。
・しかしどこに行けば神と出会えるのか。神はどこにおられるのか。
−ヨブ記23:8-9「だが、東に行ってもその方はおられず、西に行っても見定められない。北にひそんでおられて、とらえることはできず、南に身を覆っておられて、見いだせない」。
・ヨブは神に出会いさえすれば神は彼を無実とされると信じる。彼自身、何のやましさも感じていないからだ。
−ヨブ記 23:10-12「しかし、神は私の歩む道を知っておられるはずだ。私を試してくだされば金のようであることが分かるはずだ。私の足はその方に従って歩み、その道を守って、離れたことはない。その唇が与えた命令に背かず、その口が語った言葉を胸に納めた」。
・ただその一方で神が一旦ヨブを罪ありとされたならば、神はその決定を覆されることはないのではとも恐れている。
−ヨブ記23:13-14「神がいったん定められたなら、だれも翻すことはできない。神は望むがままに行われる。私のために定めたことを実行し、ほかにも多くのことを定めておられる」。
・神しか救えないのにその神が、「見えず」、「理解出来ない」。ヨブは不可解な神、隠れたる神に直面している。
−ヨブ記23:15-17「それゆえ、私は御顔におびえ、考えれば考えるほど、恐れる。神は私の勇気を失わせ、全能者は私をおびえさせる。私は暗黒を前にし、目の前には闇が立ちこめているのに、なぜ滅ぼし尽くされずにいるのか」。

2. 神はどこにおられるのか

・「神はどこにおられるのか」、多くの人が問いかけてきた。ある意味で永遠の問である。ユダヤ戦争末期にエルサレム神殿に留まり、神が助けてくださると信じてローマ軍によって虐殺されていったユダヤ人たちは「神はどこにおられるのか」と問いかけたが、何の答えもなく、彼らは殺されていった。
−ルカ19:43-44「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。
・イエスは十字架上で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と神を呼ばれたが、何の返事もなかった。
−マルコ15:33-34「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である」。
・しかし神はこのイエスを復活させられた。神は十字架でイエスと共に苦しんでおられた。これが私たちの信仰だ。
−使徒2:32「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」。
・エリ・ヴィーゼルはアウシュビッツ収容所で子どもの絞首刑を目撃した。周りの人は言った「神はどこにおられるのか」、その時、ヴィ−ゼルは神が絞首台で共に苦しんでおられるのを見た。
−エリ・ヴィーゼル「夜」から
「ある日、私たちは作業から戻ってきたときに、三羽の黒い烏のごとく、点呼広場に三本の絞首台が立っているのを見た。点呼。縛り上げられた三人の死刑囚、そして彼らの中に、あの幼いピーペル、悲しい目をした天使。親衛隊員は、いつもより気がかりで、不安を覚えているように見受けられた。何千名もの見物人の前で男の子を絞首刑にするのは些細な仕事ではなかった。収容所長は判決文を読み上げた。すべての目が子どもに注がれていた。彼は血のけがなく、ほとんど落ち着いており、唇を噛みしめていた。絞首台の影が彼を覆い隠していた。三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子にのぼった。三人の首は同時に交索の輪の中に入れられた。『自由万歳』と二人の大人は叫んだ。子どもはというと、黙っていた」。
「『神様はどこだ、どこにおられるのだ』。私の後で誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。『脱帽』と収容所長がどなった。その声は嗄れていた。私たちはというと涙を流していた。『着帽』。ついで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。晴れ上がり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし、三番目の綱はじっとしてはいなかった。子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである」。
「三〇分あまりというもの、彼は私たちの目の前で臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死との間で闘っていたのである。そして私たちは、彼を真っ向から見つめねばならなかった。私が彼の前を通ったとき、彼はまだ生きていた。かれの舌は赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。私の後で、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ』。そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる。ここに、この絞首台に吊るされておられる』」。
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