すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年10月11日祈祷会(ヨブ記21章、人生の幸不幸は神から来るのか)
1. 新しい神を見出したヨブ

・ゾパルはヨブに「悪人は必ず滅ぶ」と力説するが、ヨブは「世の現実を見る限りそうではない」と反論する「悪人でも栄える人はおり、義人でも苦しむ人がいる」のが現実の姿ではないかと。
−ヨブ記21:7-13「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない・・・彼らは幸せに人生を送り、安らかに陰府に赴く」。
・このヨブの考えは特異なものではない。これまで多くの人が疑問に思ってきたことだ。
−エレミヤ12:1-2「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです」。
−詩編73:3-12「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む・・・見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく」。
・ヨブは自分の考えに恐れをなす。それは見方を変えれば、「世界が神に統治されていることを否定する」ことであり、伝統的な考え方では不信仰となる。だからヨブもその考えに慄然とし、震える。
−ヨブ記21:5-6「わたしに顔を向けてくれ。そして驚き、口に手を当てるがよい。わたし自身、これを思うと慄然とし、身震いが止まらない」。
・私たちもどこかで、神は私たちの人生に介入されると期待している。だから病気の癒しや苦難の除去を祈る。しかし、もしかしたら私たちの神理解(超自然の神)が間違っていたのか知れない。マーカス・ボーグは言う「そう考えることは不信仰ではなく、新しい神理解(内在する神)を求めていることなのだ」。
−マーカス・ボーグ「キリスト教のこころ」から「超自然神論は人に似た存在として神を描き出す・・・神は宇宙を超えて「いと高き天に」「向こう側」にいて、時折この世界に介入する・・・超自然神論者は、今日でも神は、祈りへの応えで介入を続けていると主張する。もしときに神が介入するのならば、介入がないことをどう説明するのか。実際に起きたすべての恐ろしい出来事を知りながら、神は常に介入するとの考えが意味を為すであろうか。もし神が介入してホロコーストを止めさせられたのに、しなかったとすれば、それはどういうことか・・・他方、万有内在神論とは神を「向こう側」ではなく、存在するすべてのものを包み込む包括的な霊として描く・・・神は「我らは神の中に生き、動き、存在する」方である・・・すべてのものの「中に、共に、の背後」に神の存在を見る。出来事の直接の原因ではなく、私たちの日常の生活の背後、及び内面の存在としてである」。

2. 現実の中で神を求めるヨブ

・ヨブは論を進める「神に祈って何になるのかとうそぶく者がすべて破滅するのか、違うだろう」と。
−ヨブ記21:15-17「彼らは財産を手にしているではないか・・・神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い、神が怒って破滅を下したことが何度あろうか」。
・ヨブは現実の中で神を求める。神は教理に示された方ではなく、神の摂理は私たちの認識を超えていると考える。
−ヨブ記21:22-26「人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われると言う。ある人は、死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生を送る。彼はまるまると太り、骨の髄まで潤っている。また、ある人は死に至るまで悩み嘆き、幸せを味わうこともない。だが、どちらも塵に横たわれば、等しく、蛆に覆われるではないか」。
・私たちは人を善人と悪人に、義人と罪人に分ける。しかし神の目から見ればすべての人は罪人であろう。神は悪人を、罪人をも生かして下さる方なのだ。
−創世記8:20-22「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない』」。
・ヨブは最後に言う「現実を見よ。私は何の罪も犯していないのに苦しんでいる。他方、多くの罪を犯したとしか思えない人が平穏に暮らしている。この現実を解明できない以上、あなたたちの議論は空理空論ではないか」。
−ヨブ記21:30-34「悪人が災いの日を免れ、怒りの日を逃れているのに、誰が面と向かってその歩んできた道を暴き、誰がその仕業を罰するだろうか。彼は葬式の行列によって運ばれ、その墓には番人も立ち、谷間の土くれさえ彼には快さそうだ。人は皆彼の後に続き、彼の前にも、人は数えきれない。それなのに空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」。
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