すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年9月13日祈祷会(ヨブ記17章、暗闇の中の希望)
1.苦難の中で愛と憐れみの神を見いだし始めたヨブ

・ヨブは苦難の中でうめくが、そのうめきの中に、一筋の希望が見えてきた。それは神の異なる側面、「裁きの神」と思っていたが、実はこの方は「愛と憐れみの神」ではないかという希望である。その希望が16章後半に見えてきた。
-ヨブ記16:18-22「大地よ、わたしの血を覆うな、わたしの叫びを閉じ込めるな。このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。僅かな年月がたてば、わたしは帰らぬ旅路に就くのだから」。
・17章でヨブはこの希望を更に高める。友人から見放され、家族もいなくなった今、ヨブには神にしか頼る者はない。この全的な見捨ての中で、人は憐れみの神に出会うのではないか。
-ヨブ記17:1-3「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり。人々はなお、わたしを嘲り、わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている。あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう」。
・ヨブの慣れ親しんだ神は、超越の神、天にあり、人を創造し、裁く神だった。しかし、今ヨブは神の別の側面、愛と憐れみの神を見いだそうとしている。人間の目から見える神は二つの側面があるように思える。どちらの神を見るかで私たちの生き方は大きく変わってくる。イエスは人を生かす神を語られた。
-マタイ6:32-33「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
・八木誠一は「人を裁き、支配する神」から、イエスの言われた「憐れみの神」へ見方を変えることこそ、福音だという。
-「イエスと現代」(平凡社ライブラリー)「この神は人間の自由を外から拘束し、人間の決定に外から介入する神ではない。換言すれば人間の責任の事柄として起こる歴史の出来事に外から関与してこの方向を変えるような神ではない。つまり、人間の自立と同平面で対立し、これを否定するのではなく、人間の自由として起こる愛が、実は人を超えたところから成り立ってくる、そこで知られる神なのである」。

2.しかしまた落ち込むヨブ

・しかしヨブは相変わらず友人たちを許せない。自分を批判する友人たちが勝利を得ることがないようにと彼は祈る。
-ヨブ記17:4「彼らの心を覆って目覚めることのないようにし、彼らを高く上げないでください」。
・ヨブは嘲られ、顔につばされても自分の正しさを主張し続ける。人は自分の惨めな姿を見て驚くかも知れないと思いながらも、彼は正しさを主張し続ける。
-ヨブ記17:5-10「利益のために友を裏切れば、子孫の目がつぶれる。この格言はわたしのことだと人は言う。わたしは顔につばきされる者。 目は苦悩にかすみ、手足はどれも影のようだ。正しい人よ、これに驚け。罪のない人よ、神を無視する者に対して奮い立て。神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。あなたたちは皆、再び集まって来るがよい。あなたたちの中に知恵ある者はいないのか」。
・このヨブの強さは信仰から来るのだろう。彼はこのような絶望に追い込まれても、神は見ているはずだ、誰か理解してくれる人はいるはずだと思い続けている。この理由のつかない希望こそ信仰だ。イエスは十字架の上で「我が神、我が神、何故私を見捨てられたのか」と叫ばれた。イエスは絶望の中で神を求め続けた。そこにイエスの偉大さがあるのではないだろうか。この弱さの中の強さを、いじめを苦にして自殺する子どもたちに伝えたい。
-ヘブル5:7「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。
・ヨブは信仰の大いなる決心を述べた。しかし、その反動でまた落ち込む。自分はもはや暗黒の陰府の他に行くべき家はなく、ちりの中に伏すべき存在であることを知って、再び絶望の闇の中に落ち込む。
-ヨブ記17:11-16「わたしの人生は過ぎ去り、わたしの計画も心の願いも失われた。夜は昼となり、暗黒の後に光が近づくと人は言うが、わたしは陰府に自分のための家を求め、その暗黒に寝床を整えた。墓穴に向かって「あなたはわたしの父」と言い、蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている」。
・この苦闘は無駄ではない。やがてヨブはちりの中にも希望があることを見出す。人を生かすものはこの理由のつかない希望であり、それこそが神からの恵みであろう。
-ヨブ記19:25-27「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
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