すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年9月6日祈祷会(ヨブ記16章、仲裁者を求めるヨブ)
1.ヨブの苦痛の叫び

・ヨブ記16-17章は、エリパズの言葉に対するヨブの反論で、ヨブの苦難の極みを示したものと言われる。ヨブは自分の無罪を確信しているのに、それを認めようとしないエリパズの言葉に深く傷つく。ヨブは人間が本当には他人の身になって、その人のために語ることは出来ないのだという苦い真実を噛みしめている。
-ヨブ記16:1-3「ヨブは答えた『そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。「無駄口はやめよ」とか、「何にいらだってそんな答えをするのか」と言う』」。
・「あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」、人は言葉を持って他者を慰めることは出来ない。出来るのは行為だけである。マザーテレサはカルカッタの路上で死ぬ人々を見て、彼らに聖書を語ったのではなく、「死を待つ人々の家」に連れ帰り、彼らを看病し、その宗教(ヒンズーやイスラム)をそのまま受け入れた。
-ヨブ記16:4-5「私があなたたちの立場にあったなら、そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね、あなたたちに向かって頭を振り、口先で励まし、唇を動かすことをやめなかっただろうか」。
・今回の震災でも多くの人々が黙って為すべきことをした。品川区で開業する石井直子医師は、地元の要請を受けて石巻市雄勝に、「雄勝まごの手診療所」を開設し、以降1年半の間、毎週末を300キロ離れた石巻に通う。何が彼女を動かすのだろうか。教会も宣教の言葉だけではなく、宣教の行為が必要ではないだろうか。
-使徒2:44-47「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた・・・主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」。
・友に絶望したヨブの思いは再び神に向かう。神は何故自分を苦しめ続けるのか、何故救ってくださらないのか、何故名誉を回復してくださらないのか。彼の不満は高まる。
-ヨブ記16:7-9「もう、私は疲れ果てました。私の一族をあなたは圧倒し、私を絞り上げられます。この私の姿が証人となり、私に代わって抗議するでしょう。神が私を餌食として、怒りを表されたので、敵は私を憎んで牙をむき、鋭い目を向ける」。

2.仲裁者を求めるヨブ

・ヨブの叫びは、「理由のない苦難」を与えられた人々に共通する叫びであろう。その苦難の最たるものは、肉の痛み以上に心の痛みであろう。かつてヨブは長老として周りの人の尊敬を集めていた。そのヨブが財産を奪われ、家族も殺され、自身もおぞましい病気にかかると、周りの目が変わってきた。隣人は、ヨブは罪の故に呪われていると考え、尊敬のまなざしが軽蔑のまなざしに変わってくる。人間にとってその人格性を否定される以上の辱めがあろうか。
-ヨブ記16:10-17「彼らは大口を開けて嘲笑い、頬を打って侮辱し、一団となって私に向かって来る。神は悪を行う者に私を引き渡し、神に逆らう者の手に任せられた。平穏に暮らしていた私を神は打ち砕き、首を押さえて打ち据え、的として立て、弓を射る者に包囲させられた。彼らは容赦なく、私のはらわたを射抜き、胆汁は地に流れ出た。神は戦士のように挑みかかり、私を打ち破り、なお打ち破る。私は粗布を肌に縫い付け、私の角と共に塵の中に倒れ伏した。泣きはらした顔は赤く、死の闇がまぶたのくまどりとなった。私の手には不法もなく、私の祈りは清かったのに」。
・この叫びは十字架上のイエスの叫びのようだ。人間としての栄誉を失った今、求めるものは神の栄誉だ。神は私を認めて下さるのか。信仰者も極限の中で、その信仰は揺らぐ。
-イザヤ49:4-5「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力」。
・ヨブは絶望の中で仲裁者を求める。神がヨブに不当な苦しみを与えた。しかし神のみがこの誤りを正すことが出来る。それ故ヨブは神に敵対しつつ、神に訴えていく。ヨブは涙の中で憐れみの神を求め続ける。
-ヨブ記16:18-22「大地よ、私の血を覆うな、私の叫びを閉じ込めるな。このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には私を弁護してくださる方がある。私のために執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す。人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。僅かな年月がたてば、私は帰らぬ旅路に就くのだから」。
・私たちは苦しみの果てに神に出会う。イエスの弟子たちも地上の希望の消え失せた、正にその時に復活のイエスに出会った。十字架で「わが神、何故私を見捨てたもう」と叫ばれた方だからこそ、この方を信じる信仰が与えられた。
-ヘブル5:7「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。
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