すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年8月2日祈祷会(ヨブ記11章、教義的信仰の冷たさ)
1.ゾパルの反論

・これまでテマン人エリパズ、シュヒ人ビルダデが立ってヨブを諫めるが、ヨブは悔い改めようとしない。それを見て三人の友人の最年少者ゾパルが立って演説を始める。それがヨブ記11章である。彼は最初から喧嘩口調でヨブを責める。ヨブが多言を費やして神に不服を言うのを、「許せない不遜、傲慢」とゾパルは見ている。
-ヨブ記11:1-3「ナアマ人ツォファルは話し始めた。これだけまくし立てられては、答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと認められるだろうか。あなたの無駄口が人々を黙らせるだろうか。嘲りの言葉を吐いて、恥をかかずに済むだろうか」。
・ゾパルも応報の教義に立つ。ヨブが苦難にあることこそが彼が罪人であることの印であるのに、それを認めようとしないヨブを激しく攻撃する。彼は子を亡くしたヨブの苦しみ、治らない病に苦しめられるヨブの姿を見ようともせず、ただ自分の信じる教義をまくし立てる。
-ヨブ記11:4-6「あなたは言う『私の主張は正しい。あなたの目にも私は潔白なはずだ』と。しかし、神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ。神が隠しておられるその知恵を、その二重の効果をあなたに示されたなら、あなたの罪の一部を見逃していてくださったとあなたにも分かるだろう」。
・ヨブの血を吐くような無実の申し立てをゾパルは一蹴する。彼にとって神は「超自然的存在」であり、「為すことはすべて正しく」、「その裁きに不正があるわけはない」と信じ込んでいる。彼には、神が間違っているという考えが入り込む余地がない。だから彼らは無条件にヨブを断罪する。
-ヨブ記11:7-10「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。神は地の果てよりも遠く、海原よりも広いのに。神が傍らに来て捕え、集めるなら誰が取り返しえようか」。
・今日でも多くの人々が、神は「超自然的存在」だと考え、「審判者」として君臨され、正義の視点からこの世に「介入される」方だと信じている。それなのに現実には戦争という殺し合いで何百万の人が死に、災害という惨禍が多くの人命を奪い、犯罪はなくならず、病気は絶えない。だから人は言う「神がおられるのに何故」、「神は何をしておられるのか」と。ヨブは自らの苦難を通して「神はそのような方ではない。神は私たちを愛される恵みの方だ」と感じ始めている。だから神に納得いかなくとも神を求め続ける。ゾパルにはそれが理解できない。
-ヨブ記11:11-15「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない。生まれたときには人間もろばの子のようなものだ。しかし、愚かな者も賢くなれる。もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそあなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく恐怖を抱くこともないだろう」。

2.教義的信仰の冷たさ

・ゾパルの信じる神は脅しの神である。「従わなければ罰する神」であり、「従う者には祝福を与える神」である。旧約聖書の神にはこのような応報神の一面がある。
-申命記28:1-15「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日私が命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう・・・しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」。
・イエスはこのような旧約の神概念は間違っていると考えられた。イエスの伝える神は、「悪人にも太陽を上らせ、正しくない者にも雨を与えてくださる恵みの神」である。
-マタイ5:43-45「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。
・教義的信仰に従う人は、自己の信じる教義を守らない者を罪人として断罪し、神を審判者と考える故に、信じない人を脅す。私たちがどのような神を信じるかは私たちの生き方を変えるほどの大問題なのである。
-ルカ3:7-9「ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」。

*ヨブ記11章参考資料:マーカス・ボーグ「キリスト教のこころ」の教える、神に関する概念の対立

・マーカス・ボーグは、聖書には「超自然神論」という考えと、「万有内在神論」の二つの神概念があると述べる「超自然神論は人に似た存在として神を描き出す。神は飛び抜けた最高の人格然たる存在で、実に至高の存在である。ずっと昔、この人格然たる存在が、世界を神とは別のものとして創造した。従って、神と世界は歴然と区別される。神は宇宙を超えて「いと高き天に」「向こう側」にいる。神・世界関係を介入主義の見方で見ることはこの神のイメージから来る。すなわち、神は向こう側にいて、時折この世界に介入する。キリスト教の形をとる超自然神論の目からは、介入は聖書に記述されたスペクタクルの出来事で起きている。特にイエスに関係した出来事、誕生、奇跡、死、復活がそうである。そればかりか、超自然神論者は、今日でも神は特に祈りへの応えで介入を続けていると主張する」。
・しかしボーグは、超自然神論は現実には破綻していると考える「もし時に神が介入するのならば、介入がないことをどう説明するのか。実際に起きたすべての恐ろしい出来事を知りながら、神は常に介入するとの考えが意味を為すであろうか。もし神が介入してホロコーストを止めさせられたのに、しなかったとすれば、それはどういうことか。神がテロリストの攻撃を止めさせられるのに、しないと考えることに意味があるのだろうか。神が飛行機を衝突から守り、町をハリケーンが襲うことから守ると考えることも。もしそのようなことがあれば、何故あるときだけ介入し、他ではしないのか。介入があれば、あらゆる悲劇的なニュースが流されることもなくなる」。
・マーカス・ボーグはこの破綻した「超自然神論」に代わる「万有内在神論」という考え方を取る。彼は述べる「万有内在神論という言葉はここ200年来のものに過ぎないが、その考え方自体は聖書に古くからある。この考えは神を「向こう側」の人格然とした存在としては描かず、存在するすべてのものを包み込む包括的な霊として描く。宇宙は神から分離せず,神の中にある。(中略)この概念も聖書に見られる。一番明白で簡潔な表現は使徒言行録17:28におけるパウロのものである。神はその中で「我らは神の中に生き、動き、存在する」方である。(中略)神との関係で私たちはどこにいるのか。私たちは神の中にいる。神の中に生きる。神の中に動く。神の中に私たちが存在する。神は「向こう側」ではなく、「こちら側」、私たちみんなの周りにいる。(中略)万有内在神論は,神の意図、神の相互作用について語る。あるいは聖体験的な言葉を使えば、すべてのものの「中に、共に、の背後」に神の存在を見る。出来事の直接の原因ではなく、私たちの日常の生活の背後、及び内面の存在としてである」。
・ボーグは超自然神論も万有内在神論もキリスト教の伝統に深く根付いているが、西洋においては、啓蒙主義の影響を受けて、ここ数百年、超自然神論が優勢であったという。ここに問題が生じる.すなわち「向こう側が強調され、こちら側から分断されて、神の世界との関係は歪み、神の概念はますます受け入れがたくなった.(中略)現代では超自然神論が非常に一般的なため、多くの人々が「超自然神論の神」の概念を「神」という言葉の持ちうる唯一の意味と思っている。彼らには神を信じることは「向こう側」の人に似た存在を信じる意味になる。これを信じないことは神を信じないことである」。
・ボーグはこの「超自然神論」が、神を君主、立法者、審判者とみる考え方を導き,旧約においては「律法を守らない」ものを処罰し、新約においては「イエスの贖いを信じない」ものを破滅させる神という概念を導いたと考える。それに対して「万有内在神論」では、神を「愛と正義の神」とみる。イエスが対決したのはこの「律法の神」であり、イエスが唱えたのは「恵みの神」である。彼は言う「愛と正義の神、そして神の恵みを重視すれば、キリスト教のメッセージに直接的な意味が出てくる。すのわち、神は既に私たちを愛しており、正に私たちを初めから愛してきた。クリスチャン生活は救われるために信じ、行わなければならないことを私たちが信じ、行うことに関わるのではない。むしろ既に真理であること、神が私たちを愛していることを知り、次にはその関係で生き始めることである。それは自覚と意図を持つことである。(中略)キリスト教は求めに関するものか、ここには救われるために行わなければいけないことがある。それともキリスト教は関係と変革に関することか、ここには道がある。それを行こう。しなければならないことは双方にある。しかし、一方は脅し、他方は招きである」。
・今日、多くの論者が「神は死んだ」、「現代人はもはや神を信じることは出来ない」という時の神は、この「超自然神論の神」のことである。多くのクリスチャンたちが嘆く「神の沈黙」、「神の不在」も、この「超自然神論の神」を考えているからであり、神を「私たちの中に、私たちと共に、私たちの背後」におられる「インマヌエルの神」と理解する時、神に対する疑問は解消する。このパラダイム転換、神概念の「非神話化」が今求められているのではないだろうか。
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