すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ヨブ記  >  2012年7月19日祈祷会(ヨブ記9章、私は正当に扱われていないと怒るヨブ)
1.怒りのあまり、信仰を無くしていくヨブ

・ヨブを慰めるために来たはずのビルダデの議論は、いつの間にか、「自分は悪くない」と頑なに主張するヨブを諫める方向へと発展していく。ヨブも「神は正義であり、公平である」ことは認めている。しかし「自分に対しては正義でも公平でもない」と言う。一般論は個別の人の苦しみを解決することは出来ないのだ。
-ヨブ記9:1-4「ヨブは答え『それは確かに私も知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても、千に一つの答えも得られないだろう。御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑になりながらなお、無傷でいられようか』」。
・神は天地を創造され、支配される。大地を揺るがし、太陽や星を動かし、海をも制御されている。その圧倒的な力の前に、人は何も言うことを許されないのかとヨブは問いかける。
-ヨブ記9:5-10「神は山をも移される・・・神は大地をその立つ所で揺り動かし、地の柱は揺らぐ。神が禁じられれば太陽は昇らず、星もまた、封じ込められる。神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。神は北斗やオリオンを、すばるや、南の星座を造られた。神は計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる」。
・古代の人々は噴火や地震、嵐等を神の怒りの故だと考えた。今日の私たちはそれを自然現象だと理解している。この自然現象も神の支配下にあるとしたら、地震や津波で死ぬ人も神の許しの元に滅ぼされていったのだろうか。ヨブはそう考え、神はまるで暴君のようではないか、私が財産を奪われ、子供を亡くし、らい病にされても、私は何も言えないのかとヨブは抗議する。
-ヨブ記9:14-18「私のようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。私の方が正しくても、答えることはできず私を裁く方に憐れみを乞うだけだ。しかし、私が呼びかけても返事はなさるまい。私の声に耳を傾けてくださるとは思えない。神は髪の毛一筋ほどのことで私を傷つけ理由もなく私に傷を加えられる。息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる」。
・そしてヨブの絶望の叫びはその究極に達する。ここでのヨブはもう信仰を失っている者のように、無神論者のように神を罵っている。「神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる」、そう思わざるを得ない現実にヨブは立たされている。
-ヨブ記9:19-24「力に訴えても、見よ、神は強い。正義に訴えても、証人となってくれる者はいない。私が正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。 無垢かどうかすら、もう私は知らない。生きていたくない。だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。

2.仲裁者に期待する

・25節からヨブの論調は変わり始める。神を批判しても、罵っても、そこから何も良いものは生まれないことに彼は気づいていく。彼が求めるのは救済である。そのために仲裁者がいればと彼は求め始める。
-ヨブ記9:32-35「このように、人間ともいえないような者だが、私はなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方と私の間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、私の上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなく私は宣言するだろう『私は正当に扱われていない』と」。
・ある注解者は次のような記事を元に、当時のヨブの気持ちを考えよと示唆する。イギリスのラジオ番組で流された実話だという。
-イエス像にケーキを投げつけた父親の話「一人の父親が癌に冒された娘を見舞うために、病院に向かっていた。父親はケーキの箱を抱えていた。その途中に教会があり、彼は中に入って娘の癒しを祈った。やがて病院に着くと、彼は娘が死んだことを告げられた。彼は直ちに教会に戻り、祭壇の後ろの十字架像にケーキを投げつけた。それは命中して、ねばねばしたクリームがキリスト像の顔から肩にかけて、ゆっくりとしたたり落ちた」。
・ケーキを投げつけても娘は生き返らない。ヨブがいくら神を罵っても死んだ子供たちは生き返らない。しかし、悲しみを癒すためには、それは必要な作業だった。やがてヨブは仲裁者と出会うが、その出会いを行うためには、ヨブはさらに苦しまなければいけなかった。
-ヨブ記19:25-27「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
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