すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2012年2月8日祈祷会(詩篇128編、家庭団欒の歌)
1.主に従う人の幸い

・詩篇128編は「幸いなるかな」で始まる祝福の歌である。主を畏れ、主の道を歩む者は幸いであると歌われる。
−詩篇128:1「都に上る歌。いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ」。
・詩篇1編も同じ「幸いなるかな」で始まり、同じく主に従う者への祝福を歌う。
−詩篇1:1-3「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。
・「あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる」。この詩が書かれたのは捕囚帰還後であり、イスラエルはいつも他国支配下にあり、地の実りがその時の支配者に取り上げられることもしばしばであった(イザヤ65:21参照)。「あなたの手が労して得たものはあなたの食べ物となる」ことは、まさに神の祝福であった。
−詩篇128:2「あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」。
−イザヤ65:21-23「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない・・・彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」。
・彼の家庭もまた祝される。彼の妻は葡萄の木と呼ばれる。一本の葡萄の木から多くの蔓が生じ、その先には豊かな葡萄の房がなる。彼の妻は彼のために多くの子を生む。また子供たちはオリーブの若木と呼ばれる。常緑のオリーブは生命力の象徴だ。
−詩篇128:3「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木」。
・主を畏れる人はこのように仕事においても家庭においても祝福を受けると詩人は賛美する。
−詩篇128:4「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」。

2.祝福と呪いは紙一重

・この詩は都詣での歌に分類される。おそらくは家族挙げて過ぎ越し祭りにエルサレムに上京し、神殿に参拝し、そこで受けた祭司の祝祷がその基本形であろう。今家族が平安であるのは国が平安であるからだ。民の幸いは国の幸いと一つだとイスラエルの人々は理解している。
−詩篇128:5-6「シオンから主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和」。
・この祝祷はアロンの祈りを基本にしている。民数記にあるアロンの祈りは祝祷の原型である。
−民数記6:24-27「“主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように”。彼らが私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう」。
・この詩の背景には応報思想がある。神を畏れる者には祝福が、神に逆らう者には呪いが与えられる。しかし、この応報思想が結末から祝福と呪いを見るようになる時、病気や障害への差別にもなる。イエスの弟子たちは生まれつき盲の人を見てそこに神の呪いを見たが、イエスはそれを否定される。
−ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。
・主を畏れる人が苦難に会い、主に従う人が貧困の中に置かれることもある。しかし主はそれらの人を放置されない。貧しい人は主が共にいて下さるとの希望を持てる。だから「貧しい人々は幸い」なのだ。ルカ16章の貧しい人の名前ラザロはエリアザル(神救いたもう)の短縮形であることは象徴的だ。
−ルカ6:20-23「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。
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