すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ダニエル書  >  2012年2月2日祈祷会(ダニエル書12章、終末の救い)
1.終わりの日の復活の希望

・ダニエル書が書かれた時代、ユダヤはシリアの支配下にあり、シリア王アンティオコス4世はユダヤ教の祭儀を禁止し、律法を守ろうとする人々を殺し、エルサレム神殿にゼウス像を建てて神殿を冒涜した。
−ダニエル11:33-36「民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される・・・これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える・・・怒りの時が終わるまで栄え続ける」。
・律法の一つが食物規定であり、ユダヤ人は豚肉を汚れた食べ物として食べない。アンティオコス王は頑強に豚肉の給食を拒否するユダヤ人を、王の命令に服さないものとして殺していく。
−第二マカバイ記7:4-9「王は・・・口を開いた者の舌を切り・・・頭の皮をはぎ・・・体のあちらこちらをそぎ落とした。こうして見るも無残になった彼を、息のあるうちにかまどの所へ連れて行き、焼き殺すように命じた・・・こうして最初の者の命を奪うと、次に二番目の者を引き出し、これを辱めた。頭の皮を、髪の毛もろともはぎ取ってから『肉を食え。それとも体をばらばらにされたいのか』と言った。それに対して彼は、父祖たちの言葉で『食うものか』と答えた・・・息を引き取る間際に彼は言った『邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ』」。
・「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる」、ダニエル書の著者は考える「信仰のために受難を受けた者がどうして主の栄光に預からないことがあろうか。彼らは時が来れば黄泉の国の眠りから覚まされ、永遠の生命に与るのだ」と。その信仰がダニエル書12章にある。
−ダニエル書12:1-3「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」。

2.未来と現在

・ここにあるのは復活の願望であり、復活信仰ではない。私たちはここに天国と地獄の教義を読み込んではいけない。それは神の秘義に属することであり、私たちには知りえないことだ。だから天使はダニエルに言う「終わりの時が来るまでこの書を封印せよ」と。
−ダニエル書12:4「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す」。
・しかしダニエルは終わりの時がいつか、いつ迫害が終わるのかを知りたがる。そのダニエルに天使は言う「終わりの時まであなたは為すべきことをしなさい。その先は主に委ねなさい」と。
−ダニエル12:5-13「私ダニエルは・・・『これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか』と尋ねた。すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が・・・こう誓うのが聞こえた『一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する』。こう聞いても私には理解できなかったので、尋ねた『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか』。彼は答えた『ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている・・・終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう』」。
・未来のことは私たちには分からない。だから私たちが為すべきことは与えられた今を精一杯生きることだ。パウロが、「終末が近いなら何をしてもしょうがない」として働こうとしない人々を戒めたのと同じだ。
−競謄汽蹈縫2:1-3:13「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとに私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、私たちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい・・・あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私たちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」。
・明日のことは明日に委ねる。イエスが言われたのもそういうことだ。
−マタイ6:34「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。

*ダニエル書12章参考資料:競謄汽蹈縫3:6-15、落ち着いて仕事をしなさい

・「働かざるもの、食うべからず」は聖書の言葉で、競謄汽蹈縫3章10節に出てくる。マルクスがこの言葉を「生産に役だたない者は食べる資格はない」という意味に使い始めてから、言葉はもともとの意味を超えて、使用されるようになって来た。聖書はどのような意味で、この言葉を使っているのだろうか。テサロニケはパウロとシラスの開拓伝道で立てられた教会だ。彼らはパウロから福音を聞いた「キリストが来られて、世はその意味を変えた。世と世のものは過ぎ去る。だから世に関らないようにしなさい」(汽灰螢鵐7:31)、「主の日は近い。だから目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)。世の価値だけを求めて生きる、そのような行き方を変えて神の国を求めなさいという勧めだった。
・テサロニケの信徒はそれを曲解した「最後の日、主の日が来る。いまさら働いてもしようがない。教会に行って主に祈り、黙想の時を過ごそう」。彼らは教会の人々に言った「私たちはあなたがたのために祈るから、あなたがたは私たちにパンを与えなければいけない」。パウロはそのような人々を怠け者と呼んだ。「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になるのがキリストの教えられたことではない。キリストは今も働いておられる。だから、私たちも力の限りに働くのだ」。そしてパウロは言う「『働きたくない者は食べてはならない』と命じておいたではないか」(競謄汽蹈縫3:10)。ここに『働かざるもの、食うべからず』の言葉が生まれた。
・聖書は「働きたくないものは食べてはいけない」と言っているのであり、「働けない者は食べてはいけない」とは言っていない。病気のため、高齢のため、職が見つからないため、働けない人々がいる。それらの人々に「食べさせるな」と言われているのではないことをしっかりと認識することが必要だ。しかし、人間の思いは神の言葉を曲げる。「働かざるもの、食うべからず」、ドイツのナチス政権は、戦争が始まると、全国の施設にいた障害者の処刑を命じた。戦争という重大時に、何の役にも立たない人間に与えるパンはないと彼らは言い、障害者を「生きる価値のない命」として殺した。日本では介護保険法が改定され、老人ホームでの住居費や食費は自己負担となる。その結果最低月10万円の老後収入のない人は特別養護老人ホームにも入れない。「働かざるもの、食うべからず」とは怠けて働かないものを叱責する言葉だ。それなのに「働けないもの、食うべからず」と言葉が拡大・悪用されている。
・聖書は労働をどのように見ているのだろうか。創世記によれば、人はもともとエデンの園を耕し、守るものとしての使命が与えられている。人間は本来働くもの、働きを通して喜びを得るものとして創造されている。その人間が神を離れ、自分が神になろうとした。その結果、人間はエデンの園を追われ、宣告された「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ・・・お前は顔に汗を流してパンを得る」(創世記3:18-19)。ここで労働が苦痛に満ちた呪いの行為となる。働くという行為の中には、神に祝福された本来の喜びと、神に呪われた苦痛の双方の意味がある。怠け者は苦痛を避けようとして働くのを止め、勤勉な人は喜びを得ようとして働く。
・私たちクリスチャンはどうすべきか。私たちもかつては罪の縄目の中にあり、神の呪いの中にあった。しかし、キリストの十字架を通して赦され、今では神の子とされた。もう労働についての呪い、苦痛からは解放されている。だから一生懸命働け、働くものを神は祝福して下さるとパウロは言う。働くとはキリストの業を共に担うことだ。ある人は言った「働く」とは「はた=他を、らく=楽にする」。キリストにあっては、労働や職業は世の中を楽にし、他者を愛するために存在する。従って怠けて働かない者はキリストから離れている。だから叱責される。
・働き方にはいろいろある。専業主婦も立派な働きだ。その仕事をヘルパーの人に頼めば、月に15-20万円は必要となる。それだけの価値の仕事が目に見えない形で為されている。寝たきりの老人も働くことが出来る。人のために祈る時、それは立派な仕事になる。人の話を嫌がらずに聞いてあげることも立派な働きだ。人はそれぞれ賜物(タラント)を与えられている。その与えられたタラントを持って働けばよい。高齢の人は高齢のままで、病気の人は病気のままで働けばよい。それがパウロのいう「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」(競謄汽蹈縫3:12-13)ということだ。高齢の人も、病気の人も大事な働きが出来るのだ。他者のために祈る、これ以上に大事な働きがあろうか。
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2012年1月26日祈祷会(ダニエル書11章、歴史と未来)
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