すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2012年1月4日祈祷会(詩篇123編、嘲りの中で)
1.侮られた民の祈り

・詩篇123編はネヘミヤが初めてエルサレムを訪問した時の歌とされている。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民はペルシア支配下で国の再建を目指したが、最初の数十年、自分たちの行政権を与えられず、サマリア総督の支配下で苦しんだ。バビロンに残っていたネヘミヤはエルサレム城壁再建のために故郷エルサレムに戻り、サマリア人や近隣諸民族の嘲りと妨害の中で城壁再建事業に取り組んだ(前445年)。
−ネヘミヤ2:11-19「私はエルサレムに着き・・・竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた・・・私は彼らに言った『私たちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない』・・・ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いて私たちを嘲笑い、さげすみ、こう言った『お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか』」。
・その後、この歌が異境の地で暮らし、エルサレムに巡礼する人々の心を捕らえ、巡礼歌に加えられたものであろう。周囲の人々の侮りと嘲りの中で苦しむ詩人は、目を上げて天の父に呼びかける。
−詩篇123:1「都に上る歌。目を上げて、私はあなたを仰ぎます、天にいます方よ」。
・国家の滅びを経験した詩人の時代の人々は、一度神に突き放され、神に裁かれた自分たちの状況を知っていた。しかしそれにも関わらず、あえて目を遠い天におられる神に注ぐ。突き放されても求めていく、そこに信仰がある。1節の個人の祈りに応えて、2節以降は同じ苦しみにある民の祈りが加わる。
−詩篇123:2「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、私たちは、神に、私たちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」。
・国を亡くし、他民族に侮られることは辛い。敗戦後の日本人もこのような経験をした。イスラエルは亡国の苦しみを繰り返し経験し、その苦難の歴史が彼らを神の民とした。人は苦難を通して、「隠れたる神」を見出す。
−イザヤ30:18-20「主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は・・・シオンの民、エルサレムに住む者よ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」。

2.主よ憐れみ給え

・詩人はただひたすらに救済を求めて祈る。「助けは神からしか来ない」ことを知るからだ。望み得ない状況の中でもひたすら信じて待つ。それが信仰だ。初代教会の人々が祈ったキリエ・エレクソンもそのような祈りだ(Κύριε ἐλέησον, Χριστὲ ἐλέησον, Κύριε ἐλέησον)。
−詩篇123:3「私たちを憐れんでください。主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあまりにも恥に飽かされています」。
・詩人を侮り、嘲笑するのは誰であろうか。亡国の民が異邦の地で信仰を貫こうとする時、人々は嘲る「お前たちの神は負けたではないか。今どこにいるのだ。祈っても何も良いことは起きないではないか」と。その中で詩人はひたすら祈り続ける。問題の根本が「彼と私」にあるのではなく、「神と私」にあることを知る故だ。苦しみの原因は敵の嘲笑や侮りではなく、それに心を動かされる自分にあることを詩人は知る。
−詩篇123:4「平然と生きる者らの嘲笑に、傲然と生きる者らの侮りに、私たちの魂はあまりにも飽かされています」。
・私たちは病や困難な状況が解決されれば幸せになれると思っている。しかし健康体の人が心悩んで自殺し、恵まれた地位や富があっても心満たされない人は多い。外部状況の変化ではなく、私たち自身の在り方が私たちを苦しめているのだ。聖書は悲しみ、苦しみのどん底に落ちたもののみが真の救いの喜びを味わうと告げる。哀歌を歌った詩人はバビロン軍の侵攻により町が焼かれ、家族を殺され、友を捕囚にされた苦しみの中で信仰を歌う。
−哀歌3:25-38「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない・・・災いも、幸いもいと高き神の命令によるものではないか」。
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