すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年10月27日祈祷会(エゼキエル46章、礼拝の秩序を守る)
1.犠牲の献げもの

・エゼキエル46章では捧げもののついての詳細規定が述べられる。旧約は祭儀宗教であり、礼拝は犠牲の動物を捧げることから始まる。何故、犠牲を捧げる事が礼拝として求められるのか。神は犠牲の動物を必要とされない。そこで求められるものは、自分が罪を犯し、それを悔い改め、神の前に謝罪を求める心である。
−エゼキエル46:1-3「内庭の東向きの門は、仕事をする六日の間、閉じておかねばならない。安息日には門を開く。また、新月の日にも門を開かねばならない。君主は外から門の廊を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居の所で礼拝した後、出て行く。門は夕方まで閉じてはならない。国の民は、安息日と新月に、門の入り口の所で主に向かって礼拝しなければならない」。
・君主は安息日ごとに子羊6匹と雄羊1匹、月の初めにはそのほかに雄牛1頭を捧げることが求められている。遊牧の民にとって、牛や羊は貴重な財産だった。自分の分身とも言うべき家畜を、奉納者が自分の手で殺し、祭司に渡す。奉納者は牛の悲鳴を聞いて、自分自身がほふられる痛みを感じる。多くを捧げても、痛みを伴わない献げ物は価値がない。
−エゼキエル46:4-6「君主が、安息日に主にささげる焼き尽くす献げ物は、無傷の小羊六匹と無傷の雄羊一匹である・・・新月の日にささげるものは、無傷の雄牛の子一頭、小羊六匹、雄羊一匹である。これらも無傷でなければならない」。
・君主の役割は神の御前に自らを整え、民を整えることである。政治は祭事と言われてきた。神を畏れ、神の前に姿勢を正すことが祭事の始まりである。神を忘れた時、政治は貪りに変わっていく。
−エゼキエル34:2-5「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは・・・苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」。
・君主は財力に応じた特別な捧げものが求められたが、神殿の礼拝においては民衆と行動を共にするように求められる。君主はその職務と責任のゆえに尊敬されるが、主の前においては会衆の一人であり、特別な待遇は受けない。
−エゼキエル46:9-10「国の民が、定められた祝日に主の前に入るときは北の門を通って、礼拝に来た者は南の門を通って出て行き、南の門を通って来た者は、北の門を通って出て行かねばならない・・・君主は彼らの間にあって、彼らが入るときに入り、彼らが出るときに出て行かねばならない」。
・教会では往々にして地位の高い人や金持ちが優遇されることがあるが、それは正しくないとヤコブも教える。
−ヤコブ2:3-4「立派な身なりの人に特別に目を留めて『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には『あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。

2.礼拝の秩序を守れ

・神殿では毎日捧げものが捧げられ、7日目ごとに民が集い、決まった時期に祭りを行う。私たちが健全な信仰生活を続けるためにはこの礼拝のリズムが必要なのである。私たちも、主日に集まり、月始に主の晩餐を守り、記念日を覚えて行く。7日目ごとの安息日を守っていくことこそ、神の前に自分の身を正していくことなのだ。
−申命記5:12-14「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」。
・16節から君主の所有地について規定される。君主には十分なだけの生活の糧を得る土地が与えられるゆえに、民の土地を侵すことをするなと命じられる。かつて貪欲な王たちは土地を民から取り上げて自分のものにしていた。
−エゼキエル46:18「君主は民の嗣業を取り上げてはならない。彼らの所有地を奪ってはならない。自分の所有地は自分の子らに相続させねばならない。それは、わが民の一人でも、その所有地から追い立てられることがないためである」。
・19節以下では神殿の台所の様子が示される。そこでは犠牲の動物を煮たり、穀物の供え物を焼いたりして、祭司と会衆が共に食べる。食事を共にすることもまた礼拝の一部であることが示されている。初代教会では主の晩餐式は、各自が持ち寄った食事を共に食べる場であった。その時、一部の仲間だけで食べれば、それは主の晩餐にはならないではないかとパウロは戒めている。会食もまた礼拝の一部なのである。
−第一コリント11:18-21「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています・・・それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」。
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