すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年10月6日祈祷会(エゼキエル44章、新しい神殿での祭司の役割)
1.祭司の役割

・エゼキエル44章では、新しく再建された神殿での祭司のあり方についての指示が下される。最初に神殿から異邦人を追放することが求められている。かつて神殿の下仕事は戦争捕虜の異邦人に委ねられていた。そのことを祭司であるエゼキエルは神への冒涜だと考えていた。
−エゼキエル44:7-9「お前たちは心に割礼を受けず、体にも割礼を受けていない外国人を、私の聖所の中に引き入れてとどまらせ、彼らに私の食物として脂身と血をささげさせ、私の神殿を汚し、すべての忌まわしい行いによって私の契約を破った。お前たちは私の聖所の務めを守らず、お前たちの代わりに外国人を私の聖所で務めを行う者にした。主なる神はこう言われる。心に割礼を受けず、体にも割礼を受けていないすべての外国人、すなわちイスラエルの子らの中に住んでいるすべての外国人は、私の聖所に入ってはならない」。
・エゼキエルの国粋主義はやがてエズラに継承され、帰還後のエルサレムでは異邦人は排斥されていった。
−エズラ記10:10-11「祭司エズラは立ち上がり、彼らに言った『あなたたちは神に背いた。異民族の嫁を迎え入れて、イスラエルに新たな罪科を加えた。今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主の御旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい』」。
・他方、捕囚から帰還後に立てられた第三イザヤはこのような国粋主義に反対し、異邦人も受け入れるように主張した。
−イザヤ56:6-7「主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、私の契約を固く守るなら・・・私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。
・今日、ドイツでは3Kと呼ばれる下仕事(ゴミ収集、道路工事等)は外国人労働者によって担われ、彼らなしでは社会経済は成り立たない。しかし移民が増えてくると(ドイツでは人口の10%)、「治安が悪化した」、「ドイツ人の仕事が奪われる」という排斥の声が高まる。エジプトで奴隷労働に従事していたイスラエル人と同じ問題がここにある。
・排斥した外国人の代わりに、レビ人が雑務(門衛、犠牲の獣の解体等)を担えと命じられる。王国時代、イスラエルは各地に神殿があったが、それらの地方聖所は土地の宗教と一体化し偶像礼拝の宮となっていた。ヨシヤ王の時に宗教改革として地方聖所が廃止され、地方祭司であったレビ人はエルサレム神殿の雑務を担う者とされていた。
−エゼキエル44:10-14「レビ人は、イスラエルが迷った時、私から離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わねばならない。彼らは私の聖所で奉仕するが、神殿のそれぞれの門に詰めて神殿の雑務を行う。彼らは、民のために焼き尽くす献げ物と会食の献げ物の動物を屠り、民の前で彼らに仕える・・・彼らは、祭司として私に仕えるために近づくことはできない。また、最も神聖な、私の聖なるいかなるものにも触れることはできない。彼らは自分の犯した恥ずべきこと・・・の責任を負わねばならない。私は、彼らを神殿の雑務を行う者とし、神殿で行われるさまざまな仕事を与える」。

2.聖と俗の意味

・神殿で重要な役割を担ったのはザドク系の祭司たちであった。イスラエルの祭司の系統には、ザドク系、アビアタル系、エリ系があって、エリ系は早くに滅びた。祭司アビアタルはソロモン王時代のアドニアの謀反に加担し、祭司ザドクはソロモンに忠実であった。内乱鎮定後、ソロモンはザドクの裔たる祭司を重んじ、アビアタル系は勢力を失って、以降ザドク系の者が祭司の正統を守る者として認められていた。そのために、ここにザドクの裔であるレビの族だけが、祭司としてエルサレム神殿に仕え、それ以外のレビ人は、僕となって、家の門を守る者となると定められている。
−エゼキエル44:15-16「イスラエルの子らが迷って、私から離れたとき、私の聖所の務めを守ったレビ人の祭司であるツァドクの子孫は、私に近づき仕えることができる。彼らは私の前に立って、脂肪と血をささげねばならない、と主なる神は言われる。彼らは私の聖所に入ることができる。彼らは私の聖卓に近づいて、私に仕え、務めを行う」。
・彼らは祭司として聖別され、神殿の捧げもので生活をしていくように定められた。
−エゼキエル44:28-29「彼らは嗣業を持たない。私が彼らの嗣業である。あなたたちはイスラエルにおいて彼らに財産を与えてはならない。私が彼らの財産である。彼らは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物としてささげられたものを食べることができる。イスラエルにおいてささげられたものは、ことごとく彼らに与えられる」。
・エゼキエル自身はザドク系の祭司であった。彼はまた伝統に忠実であった。そこにエゼキエルの限界があるのかもしれない。その限界を突き破られたイエスは、「良きサマリヤ人の例え」で、祭司とレビ人の民への無関心を批判される。
−ルカ10:30-32「イエスはお答えになった『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った』」。


*エゼキエル44章参考資料:祭司の宗教と預言者の宗教(矢内原忠雄、エゼキエル書講義から)

・エゼキエルの40章以下は、彼のイスラエルの復興の具体的な計画、復興案ですが、それを一言にして言うと、祭司の宗教です。祭司の宗教は、預言者の宗教とよく比較され、祭司宗教は形式的でだめだと、一言に批評されるのです。そのことについて、我々はもっと考えてみる必要があります。少なくとも祭司宗教の理想をエゼキエルは述べているということだけは、言えると思うのです。祭司宗教の弊害、欠点、堕落したものに、私どもが気をとられてはいけない。祭司の宗教によって現わされている宗教の理想を、我々はエゼキエルによって、学ぶことができるでしょう。それは、神の聖さを形で表す。形に現わされた神の聖さが、祭司宗教なのです。
・そこで、結局「形」が問題になるのです。制度も一種の形です。形式がどのような意味をもつか。形に何らかの第一義的な意味があるか、ということです。これは、実に重要な、また面白い問題ですが、私の結論だけを今日お話しておきます。普通祭司宗教は形であって、他方、預言者の宗教は制度ではなく、心の聖さと言われる。預言者の宗教は心の深さ、祭司の宗教は形に現れた聖さを力説するのですが、その両方を合わせて完成したものは、キリストです。キリストは我々の祭司であるという言葉がヘブル書にありましたが、もし形が全然無意味ならば、極端に言うと、キリストが人の形をとって現れられたことも必要がない、意味がない。心だけで足りる。結局こういう問題になってくる。
・もう一つだけ、皆さんに考えて頂くために言っておきます。エゼキエルは、こうして祭司宗教の聖さを述べ、その聖さに基づいて、祭司宗教を建てています。しかし、もし形にとらわれて、心を伴わなくても形を守ればそれで聖いのだ、と言う者があるとすれば、誰よりも反対する者は、エゼキエル自身であることを、私どもはエゼキエルの39章までで、いやというほど学んできたのです。39章までを書いたエゼキエルが、40章の建設的な場合に至って、たちまち一変して、形が大切だ、形を守らなければならない、精神は第二であるなどと、そんなことを言うはずがない。もしエゼキエル書40章以下によって、エゼキエルは形式主義である、祭司宗教である、と非難するならば、それはエゼキエルに対する大きな誤解でしょう。ちょうど我々がキリストの福音によって、自分たちの救いは肉体の復活によって完成される。たましいはキリストによって罪を赦されて、幸いな神の子としての資格を与えられたが、肉体が復活して完成する。そう言うのに対して、他人が、お前は体のことを言うから物質主義である、肉体主義である、と言うならば、それは意味をなさない批評である。少なくともエゼキエルに対しては、こう言って彼を弁護してやりたいと思う。
・ただ、祭司宗教の腐敗したもの、形あるものは実に腐敗しやすいものであり、その点は我々も十分承知しています。いずれにしても、エレミヤという、祭司宗教をまっこうから否定した人と、エゼキエルという祭司宗教の理想を極端なまでに主張した人を、同じ時代に同じ社会的必要を背景として、神様が選んで預言者としてお立てになった。我々がその両方を合わせて学ぶことができることは、非常に大きな幸いです。
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