すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年9月29日祈祷会(エゼキエル43章、主の栄光が神殿に戻る)
1.主の栄光が神殿に戻る

・エゼキエル43章は、再建された神殿に「主の栄光」が戻る幻が描かれる。先にエゼキエルは主の栄光が神殿から出ていく幻を見た。人々の悪が極限に達し、主がエルサレムを捨てられたのだ。
−エゼキエル10:18-19「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、私の目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった」。
・その主が再び神殿に戻られる。それは破壊されたエルサレム再建のしるしである。
−エゼキエル43:1-5「彼は私を東の方に向いている門に導いた。見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。私が見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、私が見た幻と同じであった。その幻は、私がケバル川の河畔で見た幻と同じであった。私はひれ伏した。主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。霊は私を引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた」。
・主は「ここに私はとこしえに住む故、王宮とその墓所を遠ざけよ」と言われる。ソロモンの神殿にあっては神殿の隣は王宮であり、その間には一重の壁があったのみであった。世事を司る王宮と聖なる神殿を区分せよとの要求である。
−エゼキエル43:6-9「私は神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人が私の傍らに立っていた・・・『人の子よ、ここは私の王座のあるべき場所、私の足の裏を置くべき場所である。私は、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たち・・・の死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。彼らがその敷居を私の敷居の脇に据え、彼らの門柱を私の門柱の傍らに立てたので、私と彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、私は怒りをもって彼らを滅ぼした。今私のもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、私は彼らの間にとこしえに住む』」。
・エゼキエルは見せられた神殿の幻を人々に示し、時が来たらそのように神殿を再建せよと命じられる。
−エゼキエル43:10-11「人の子よ、あなたはイスラエルの家にこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥じ、神殿のあるべき姿を測るためである。もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば、神殿の計画と施設と出入り口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに知らせなさい。それを彼らの目の前で書き記し、そのすべての計画と掟に従って施工させなさい」。

2.幻の大事さ

・イスラエル宗教の本質は「生ける神との交わり」の中にある。神が神殿に臨在され、そのしるしが二枚の契約の板を入れた「契約の箱」であった。しかしこの箱は神殿崩壊の中で失われ、主の栄光も神殿を去った。人は神がもはや臨在できない地獄世界を造った故に神は去られた。現在の私たちが造り上げた世界も神殿崩壊前のエルサレムに似ていないだろうか。この現実のみを見つめれば、著名な神学者バート・D・アーマンのように信仰を無くしてしまうだろう。
−バート・D・アーマン・破綻した神 キリスト「人はなぜ苦しむのか。600万の無辜のユダヤ人は、なぜユダヤ人であるというだけの理由で、冷血に抹殺されなければならなかったのか。この地上で、毎日4万人の男女、子供が、汚染された飲み水に起因する病気のために死んでいかなければならないのはなぜか。神はどうして、そのような心を凍てつかせる悲惨な出来事を許すのか。全能の神、そして愛である神が。私にはもはや、この世界の諸問題に積極的に関与する神という存在は信じられない」。
・エゼキエルが目にした現実もそうであった。そこには救いはなかった。エゼキエルが神殿の幻を見たのは、第一次捕囚から25年、神殿崩壊から14年、紀元前573年である。エルサレム神殿が実際に再建されたのは前515年、幻の58年後だった。彼は生きている内に神殿が再建され、神が臨在される現実を見ることはなかった。しかし彼は見ないで信じた。
−ヘブル11:1-3「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。
・箴言は教える「幻がなければ民は堕落する」(29:18)。目の前の悲惨な現実こそ、私たちに為すべきことを教える。主の祈りは「御国に行けますように」ではなく、「御国を来たらせたまえ」と祈ることを教える。
−イザヤ6:8「そのとき、私は主の御声を聞いた『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』。私は言った『私がここにおります。私を遣わしてください』」。
・「死の谷を過ぎて〜クワイ河収容所」の著者ゴードンは、人にも神にも見捨てられたと思っていた死の収容所が、自分を忘れて他者の看護を行う何人かのクリスチャンの働きの中で変えられ、「エルサレムとは、神の国とはここの収容所のことではないか」という場所に変えられていった経験を描く。神は私たちを通して働かれるのだ(詳細下記)。

*エゼキエル43章参考資料:同じ出来事が天国にも地獄にもなる「死の谷を過ぎて〜クワイ河収容所を読んで」

・「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」(詩編23編4節)。「死の谷を過ぎて〜クワイ河収容所」を読みました。第二次世界大戦下、インドシナ半島を占領した日本軍は、ビルマへの陸上補給のために、連合軍捕虜を使って、泰緬鉄道を建設します。後に「死の鉄道」と名付けられたように、多くの生命が犠牲となりました。著者ゴードンは書いています「飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」。
・著者は収容所で病気に罹り、「死の家」に運び入れられます。人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、友人たちが訪れ、食物を食べさせ、足の包帯を替え、体を拭く奉仕をします。著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、聖書を読み始めます。彼は書きます「神は私たちを捨てていなかった。私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた」。彼は奉仕団を結成して病人の介護を行い、聖書を共に読み、礼拝を始めます。死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、死を看取ります。無気力だった収容所の中に笑い声が聞こえ、賛美の歌声が聞こえてくるようになります。彼は思います「エルサレムとは、神の国とはここの収容所のことではないか」。
・彼は最後に書きます「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。神は苦痛を分け持って下さった。神は私たちを外へ導くために死の家の中に入ってこられた」。他の収容所でもこのような奇跡が起こったわけではありません。同じイギリス人の描いた「クワイ河捕虜収容所」(レオ・ローリングス著)の副題は「地獄を見たイギリス兵の記録」です。他方、ゴードンは「神の国」を見ました。ゴードンとローリングスを分けたものは何でしょうか。信仰による希望です。他者を赦し、迎え入れる時、死の谷の収容所で起きたような奇跡が起こります。天国と地獄を分けるのは、私たちいかんではないかと思います。
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