すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年9月22日祈祷会(エゼキエル41-42章、私たちにとって神殿とは何か)
1.エゼキエルに与えられた幻

・エゼキエル40-42章はエゼキエルが見た新しい神殿の幻である。内容はエルサレムに再建される神殿の詳細な設計図であり、エゼキエルは外壁から門へ、門から外庭へ、外庭から内壁へ、更には内庭にある本殿へと導かれていく。
−エゼキエル41:1-4「彼は私を拝殿に連れて行った・・・入り口の幅は十アンマ、入り口の両側の壁の幅はこちら側が五アンマ、あちら側も五アンマであった・・・拝殿の奥の面まで奥行きを測ると二十アンマ、その横幅も二十アンマであった。そして彼は私に『ここが至聖所である』と言った」。
・神殿には祭司だけが入れる聖所があり、その奥には大祭司しか入れない至聖所があった。神殿においては聖なるものと俗なるものが厳しく分かたれ、幾重もの壁、幾重もの門によって俗なるものが近づくことを防止していた。
−ヘブル9:1-7「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と契約の箱とがあって・・・箱の上では栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました・・・祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を必ず携えて行きます」。
・旧約律法の基本は祭儀律法であった。祭儀律法においては犠牲を捧げることによって罪が贖われるとする。しかし預言者たちは「犠牲を捧げれば救われる」とする形式的礼拝に満足する人々を批判していく。
−アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・預言者たちの働きによって、律法の本質は祭儀ではなく、「いかに神の恵みに応えて生きるか」であることが明らかにされていく。「犠牲を捧げれば救われる」という時、「捧げる」という人間の行為が中心になり、そこには神はなく、あるのは自己の救いを求める自我だけである。旧約の歴史は祭儀を重んじる祭司と本質を求める預言者の戦いであった。
−エレミヤ7:9-11「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。私にもそう見える、と主は言われる」。

2.私たちにとって神殿とは何か

・イエスもエレミヤと同じように安易な神殿信仰を戒められた。神殿に参れば救われるのではないと。
−マルコ11:15-17「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された・・・そして、人々に教えて言われた『こう書いてあるではないか。私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」。
・イエスの宮清めを、後の弟子たちは、イエスは新しい神殿を形成するための贖いとして死なれたのだと理解した。ここに旧約を超えた新約がある。エゼキエルは預言者である以上に祭司であった。だから神殿から解放されなかった。
−ヨハネ2:19-22「イエスは答えて言われた『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』・・・イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。
・ヘブル書はイエスの犠牲の死によって、神殿祭儀はもはや不要になったと宣言する。
−ヘブル10:11-14「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。
・パウロは個々のキリスト者の体こそ神の霊が住まう神殿であるとし(汽灰螢鵐6:18-19)、エペソ書は共同体自身が神殿であるとする。私たちは今教会堂を建てているが、会堂の建物自体を聖化してはいけない。エゼキエル40章以下はイスラエル復興の象徴として神殿再建を願うが、本当の神殿とは建物ではないことを私たちは知る必要がある。
-エペソ2:19-22「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」。
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