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トップ  >  詩編  >  2011年8月24日祈祷会(詩編110篇、私の右の座につきなさい)
1.王の即位式の詩

・詩編110編は、本来はダビデ王朝の王たちの即位式において歌われた詩であろう。王の即位式においては油が注がれ、王は神の代理人として神の右に座る者とされた。「右の座」、神に次ぐ権威を持つ者との意味であろう。「わが主に賜った主の御言葉」とは、「私たちの王に与えられた主なる神の言葉」の意味であろう。
−詩編110:1 「わが主に賜った主の御言葉。『私の右の座に就くがよい。私はあなたの敵をあなたの足台としよう』」。
・王の役割は外に対しては国を防衛し、敵を打ち砕くことである。「あなたの敵をあなたの足台とする」、敗残の敵将の身体を踏みつけて足台にすることは実際の戦闘においても為されていた。ヨシュア記10:24-25では征服された王たちの首をヨシュアの部下たちが踏む有様が描かれている。
・王がその権威の象徴である王錫を持って戦場に臨む時、民は進んで王の兵として働く。主なる神が共におられる故に戦いは王の勝利になる。士師記の時代、人々は通常は農民として働き、いざ国の危急の時には、兵士として馳せ参じた(士師記5:9)。王国時代になると常備兵が設けられるが、それでも危急の時には国民皆兵で戦った。
−詩編110:2-3「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。あなたの民は進んであなたを迎える、聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、曙の胎から若さの露があなたに降るとき」。
・4節にあるメルキゼデクは古代エルサレムの王であり、イスラエルの父祖アブラハムが十分の一の捧げ物を捧げたことにより最初の祭司とされた(創世記14:18)。イスラエルにおいて王として立たされる者は、神の前においては神を代表する者として裁きを行い、他方では民を代表する者として、民のための執り成しの祈りを神に捧げる役割を持った。
−詩編110:4「主は誓い、思い返されることはない『私の言葉に従ってあなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(私の正しい王)』」。
・5節以下は戦場の描写である。主なる神が王の右におられる故に戦場においては勝利がもたらされ、敵は打ち破られ、多くの遺骸を残して撤退する。イスラエルの民はそれを見て主を讃える。古代社会においては武力こそ民の生存条件であって、戦わない者は滅ぼされた。現代の戦争観・平和観でこの詩を批判することは誤りであろう。
−詩編110:5-7「主はあなたの右に立ち、怒りの日に諸王を撃たれる。主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち、広大な地をしかばねで覆われる。彼はその道にあって、大河から水を飲み、頭を高く上げる」。

2.その詩がメシア預言として聞かれてきた

・この王の即位式の詩がやがてメシア預言として歌われるようになった。それは、誰もこの詩にふさわしい王はいなかったからである。
−列王記21:13-15「私はサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、私はエルサレムをぬぐい去る。私はわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す・・・彼らは先祖がエジプトを出た日から今日に至るまで私の意に背くことを行い、私を怒らせてきたからである」。
・イエスは人々が彼を「ダビデの子」と呼ぶことに反論してこの詩篇を引用される。
−マルコ12:35-37「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた『どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている“主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着きなさい。私があなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで”と。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか』。大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」。
・ペテロはイエスこそメシア=キリストであることの論証として詩編101編を用いた。
−使徒2:34-36「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています『主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着け。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで』。だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
・ヘブル書はイエスこそメルキゼデクを継ぐ大祭司であることのしるしとしてこの詩篇を引用した。
−ヘブル5:5-6「同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたは私の子、私は今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」。
・パウロもまたイエス・キリストこそメシアであったことの論拠として詩編110編を用いた。
−汽灰螢鵐15:25-28「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。
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