すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年8月4日祈祷会(エゼキエル35章、イスラエルの回復のための悪い獣の排除)
1.エドムへの滅亡預言

・エゼキエル35章はエドムの滅亡預言だ。エゼキエル書は33章からイスラエルの回復預言に入るが、そこに何故隣国エドムの滅亡預言が挿入されるのか。エルサレムが滅ぼされた時、エドムはバビロニア軍の手先としてイスラエルを攻め、領土を占拠し、自分たちのものにしようとした。そのエドムの野心を取り除かなければ、捕囚から帰還した時の国家再建がうまく行かない、回復を妨げる「悪い獣」を事前に排除する、そこに回復預言としてのエドム預言がある。
−エゼキエル34:25「私は彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする」。
・イスラエルとエドムは抗争を繰り返してきた。ダビデ時代にはイスラエルはエドムを属国とし、エドムが独立するのは100年後である。この両民族の争いの歴史が創世記では「ヤコブとエソウ」の争いとして物語化されている。
−創世記25:21-26「妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは・・・主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた『二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる』。月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」。
・エドムはエルサレム滅亡時に侵略し、イスラエルを略奪した。イスラエルは繰り返しその恨みを歌い続けた。
−詩編137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを。エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで』」。
・捕囚期のオバデヤも侵略してきたエドムへの憎しみをその預言に歌う(オバデヤ1:1-4)。またエゼキエル自身も先にエドム滅亡を預言している(25:12-14)のに繰り返す。苦難の時に足を引っ張った隣国への憎しみがそこにある。
−エゼキエル35:1-6「人の子よ、顔をセイル山に向け、それに向かって預言し、彼に語りなさい。主なる神はこう言われる。セイル山よ、私はお前に立ち向かう。私はお前に向かって手を伸ばし、お前を荒れ果てた廃虚とする。私はお前の町々を荒れ地とする。お前が廃虚になったとき、お前は私が主であることを知るようになる。お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。それゆえ・・・私はお前の血を流させ、血がお前につきまとう。血に飢えた憎しみのゆえに、血がお前につきまとう」。

2.人は憎しみを克服できないのか

・エゼキエルの預言は続く。「混乱に乗じてイスラエル領土を我が物にしようとしたエドムの罪を主は裁かれる。エドムは『主は眠っておられる』とうそぶくが、そうでないことをエドムはやがて知る」と。
−エゼキエル35:7-10「私はセイル山を荒れ果てた廃虚とし、行き来する者がないようにする。私は山々を殺された者で満たす。お前の丘にも谷にも、あらゆる谷間にも、剣で殺された者が倒れる・・・それはお前が『この二つの国、二つの土地は私のものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた」。
・11節以降も同じような預言が繰り返される。そこではイスラエルへの嘲笑が主への嘲笑とみなされて報復される。
−エゼキエル35:12-14「お前はイスラエルの山々について言った『それは荒れ果てて、我々の餌食となった』と。お前たちは私に向かって大口をたたき、私に向かって多くの言葉を重ねた。私はそれを聞いた・・・私はお前を荒れ地とする。全世界はそれを喜ぶ。お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、私もお前に同じようにする」。
・捕囚帰還後もエドムに対する憎しみは消えなかった。第二神殿時代の預言者マラキもエドムへの憎しみを語る。
−マラキ1:2-3「エサウはヤコブの兄ではないかと主は言われる。しかし、私はヤコブ(イスラエル)を愛し、エサウ(エドム)を憎んだ。私は彼の山(セイル)を荒廃させ、彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした」。
・パウロでさえ、イスラエルの選びとエドムへの見捨てを「神の自由な選び」の例証として挙げる。
−ローマ9:10-13「リベカが・・・私たちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」。
・イスラエルから見ればエドムは許しがたい敵であろうが、エドムから見ればイスラエルもまた敵だ。敵に恨みを持つ限り、敵対関係は消えない。旧約は敵への報復を断念することは出来なかった。報復の悪循環を終わらせるためには一方的な和解行為しかない。それこそイエスが目指されたことだ。
マタイ5:38-39「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。


*エゼキエル35章参考資料「報復からの解放」レビ記24章釈義から

・ある男が他と争い、主の名を用いて相手を呪った。イスラエル人なら石打の刑に処せられるが、この男が異邦人だったので、会衆は男をモーセのもとに連れてきた。
−レビ記24:11「イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒涜した。人々は彼をモーセのところに連行した」。
・異邦人であっても、主の掟は適用されるとして、モーセはこの男を石打の刑で殺すように命じられた。
−レビ記24:15-16「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる」。
・イエスが死刑にされたのも、神名冒涜の罪であった。
−マタイ26:64-66「イエスは言われた『・・・あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る』。そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか』。人々は、『死刑にすべきだ』と答えた」。
・共同体の秩序を乱す者は殺されなければいけない。しかし、誰がそれを判定するのか。イエスは律法の文言ではなく、その精神を見よと言われた。
−マタイ12:31-32「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。
・19節以降に有名な『同害報復法』が規定されている。これは本来は過剰報復を禁止するための規定であった。
−レビ記24:19-20「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。
・しかしイエスはこれを批判され、際限なく許せと言われた。
−マタイ5:38-40「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。
・律法では同胞を隣人として愛せといわれた。それは、敵は憎んでも良いということだ。しかし、イエスは同胞を超えて敵を愛せ、それが父の御心だと言われた。
−マタイ5:43-45「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。
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