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トップ  >  詩編  >  2011年7月20日祈祷会(詩編106篇、イスラエルの不信仰)
1.民の背信の歴史を振り返る

・詩編106編は105編の続きであるが、両詩編は対照的だ。105編は「主の驚くべき御業と奇跡を心に留めよ」(105:5)と歌うが、106編は「私たちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」(106:6)と罪を告白する。7節以下に8つの不信の罪が挙げられる。最初はエジプトから逃げたイスラエルの民を軍が追跡し、その恐怖の中で主を呪った罪である(出エジプト14:11「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」)。
−詩編106:7-12「私たちの先祖は、エジプトで驚くべき御業に目覚めず、豊かな慈しみに心を留めず、海辺で、葦の海のほとりで反抗した・・・葦の海は主に叱咤されて干上がり、彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。主は憎む者の手から彼らを救い、敵の手から贖われた・・・彼らは御言葉を信じ、賛美の歌をうたった」。
・二つ目の罪は、葦の海の救済にも関わらず(「彼らは御言葉を信じ、賛美の歌をうたった」)、荒野で水や食べ物がなくなるとつぶやき始める不信の罪であった(民数記11:4-5「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」)。
−詩編106:13-15「彼らはたちまち御業を忘れ去り、神の計らいを待たず、荒れ野で欲望を燃やし、砂漠で神を試みた。主はその願いをかなえられたが、彼らをやせ衰えさせられた」。
・第三の罪は主が立てられた指導者を信ぜず、仲間割れしたことだった(民数記16:3「共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」)。
−詩編106:16-18「彼らは宿営でモーセを妬み、主の聖なる人アロンを妬んだ。地は口を開けてダタンを呑み込み、アビラムの仲間を覆った。火が彼らの仲間に向かって燃え上がり、炎が神に逆らう者を焼き尽くした」。
・第4の罪は見えない神に不安をいだき、金の子牛を作ってそれを拝んだ偶像礼拝の罪である(出エジプト記32:4「彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」。カトリックのマリア像礼拝も同じかも知れない。
−詩編106:19-20「彼らはホレブで子牛の像を造り、鋳た像に向かってひれ伏した。彼らは自分たちの栄光を、草をはむ牛の像と取り替えた」。

2.それでも捨てられない主への感謝

・24節以降は約束の地カナンへの入国をためらった罪だ。偵察の報告ではその地には強大な民がおり、人々は殺されることを怖れて約束の地への入国を拒絶し、ために40年間の荒野の放浪を招いた(民数記14:3「どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。エジプトに引き返した方がましだ」)。
−詩編106:24-26「彼らは愛すべき地を拒み、御言葉を信じなかった。それぞれの天幕でつぶやき、主の御声に聞き従わなかった。主は彼らに対して御手を上げ、荒れ野で彼らを倒された」。
・28節以下はバアル・ベオルでの偶像礼拝の罪、32節以下はメリバでの不信の罪が挙げられ、34節以下には約束の地に入っても彼らは背き続けたことが記されている(入国から600年間の歴史が主からの背きとして記述されている)。
−詩編106:34-38「主が命じられたにもかかわらず、彼らは諸国の民を滅ぼさず、諸国の民と混じり合い、その行いに倣い、その偶像に仕え、自分自身を罠に落とした。彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし、無実な者の血を流した。カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血はこの地を汚した」。
・この絶え間ない背信を主は憤られ、イスラエルを滅ぼすことを決意される。その結果がバビロニアによる国土の破壊と民のバビロンへの追放だった。国の滅亡は「自分たちの主への背き」の故であったとの告白がここにある。
−詩編106:39-42「彼らは自分たちの行いによって汚れ、自分たちの業によって淫行に落ちた。主の怒りは民に向かって燃え上がり、御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし、彼らを諸国の民の手に渡された。彼らを憎む者らが彼らを支配し、敵が彼らを虐げ、その手によって彼らは征服された」。
・主は私たちを救おうと預言者を遣わされ、警告されたが無駄であった。しかし主はそれでも私たちを見捨てず、捕囚の地でも共にいて下さった。国の滅亡を警告したエレミヤやエゼキエルは、滅亡後は回復の預言を行い、捕囚地に立てられた第二イザヤは捕囚の終りと帰国を伝えた。
−詩編106:43-46「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが、彼らは反抗し、思うままにふるまい、自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こし、豊かな慈しみに従って思いなおし、彼らをとりこにしたすべての者が、彼らを憐れむように計らわれた」。
・詩人は最後に祈る「私たちはエルサレムに戻ることが出来ました。しかしまだ多くの同胞がディアスポラとして各地に散らされています。主よ、彼らを集めて下さい」と。
−詩編106:47「私たちの神、主よ、私たちを救い、諸国の中から私たちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください」。


*詩編106編参考資料〜歴史と伝承「イスラエルの歴史1・カナン定着以前の時代」(樋口 進)から

・申命記26章の告白において、イスラエルの先祖は「さすらいの一アラム人」であったと言われている。これは、イスラエルの先祖たちの置かれていた社会状況と、彼らがアラム語族に属するものであったという記憶である。そして創世記の「族長物語」は、そのことを反映している。アラム人の集団は、二つの移動群の波をなして沃地に侵入した。第一波は紀元前19-18世紀頃、アラビア半島から北に向かって流れだし、メソポタミアと沃地の周辺をなすシリアに定着し、そこでたちまち新しい支配層を形成した。聖書で「カナン人」とか「アモリ人」と言われているのは、このような移動集団であった。第二波は紀元前14-13世紀に活動し、これに乗ってエドム人、モアブ人、アンモン人、そしてイスラエル人などがパレスチナの沃地に侵入した。創世記においてアブラハムがカナンに移動した記事は、このアラム人の移動と関係があるであろう。イスラエルの先祖たちは、社会学的に見れば、牧草を追って移動する半遊牧民に属するものであった。彼らの生活状況は、沃地の周辺部をさすらいながら放牧し、小家畜の群れを飼育して生活していた。しかし彼らは乾期になると家畜の食物を求めて沃地に入ったのである。そのような牧場交換によって、彼らは次第にカナンの地に定住していったものと思われる。
・イスラエルの民がかつてエジプトで奴隷であったこと、そしてモーセによって導かれて助け出されたことは、旧約聖書の多くの箇所で証言されており、この出来事は歴史的事実に基づいていたことは確かであろう。ただしこの出来事を体験したのは、後のイスラエルを構成した全部族ではなく、その一部(多分ヨセフ族)であろう。創世記のヨセフ物語(37-48章)において、ヤコブの一家がエジプトに移住したという記事があるが、牧草を追って生活していた半遊牧民にはこのようなことがよくあった。カナン(パレスチナ)の自然条件はそれほど良くなく、雨期に雨が降らなければ、たちまち旱魃になり、動物の生命が危機にさらされた。一方、エジプトはナイル川が枯渇することはなく、食糧には恵まれていたからである。
・出エジプト記1章においてイスラエルの先祖が「ヘブル人」と言われている。これは民族を指すものではなくて、当時のオリエントの他の資料からも「アピル」とか「ハビル」と呼ばれていたものと同じもので、一種の社会層を表すものであった。これは、自分の土地や市民権を持たず、外国に寄留し、そこの権力者によって強制労働などにつかされていた階層である。イスラエルの先祖は、エジプトにおいて、このような階層に属していたのである。彼らは、王の苛酷な扱いに耐えかねてエジプトから逃亡したと思われる。出エジプト記14章5節の「民の逃げ去った」ということがこれを暗示している。
・その逃亡の最中にエジプト軍が追いかけて来たが、何かの自然現象によって、ヘブル人は助かったのであろう。「海の奇跡」については、伝承が非常に複雑で、もはや元の形を再現することは不可能である。最古の伝承と思われる資料(J資料)から想像するに、元来の出来事は、強い東風が吹いてきて、海が浅瀬になり、軽装のヘブル人はそこを渡ることが出来たが、重装備のエジプト軍はもたもたしている間に再び水が増え、エジプト軍は追撃を断念した、ということではなかろうか。しかし彼らは、これを神の大いなる救いのみ手と信じ、この出来事を語り伝えて行くうちに色々な要素が付け加えられて行ったのであろう。このエジプト脱出の人々が、その後シナイに行って、神ヤハウェと契約を結ぶという記事になるが、本来は、この出エジプトとシナイ契約は別々の出来事であり、恐らくそれを担った人々も異なっていたであろう。
・シナイ伝承は、出エジプト記18章から民数記10章にわたって記されている。しかしこの伝承の大部分は、五書の資料のうち最も新しい層に属するものである。そして、この伝承の古い層は、シナイ山においてヤハウェなる神がイスラエルの民に顕現し、そこでヤハウェとイスラエルの間に契約が結ばれた、ということである。しかし、それを歴史的にどう捉えるかは、非常に不明確である。そもそもシナイ山がどこかということについてもいろいろな説があり、確定してはいない(ジェベル・ムーサ「モーセの山」が有力)。この伝承は、歴史的な事実を背景にしていたことは確かであろう。そしてそれは、古くからシナイ半島のどこかの聖なる山への巡礼という習慣に基づいていたのであろう。ただ、この習慣を後のイスラエルを構成する部族のだれが行っていたのか、ということは不明である。そこでのヤハウェという神との出会いが、イスラエル全体のものとして伝承されていったのである。
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