すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年7月14日祈祷会(エゼキエル32章、陰府に下るエジプト)
1.エジプトへの第六の審判預言

・エゼキエル32章には捕囚第12年(紀元前585年)に為された二つのエジプトへの審判預言が収められている。いずれもエルサレム陥落1年後の預言だ。捕囚民はエジプト軍にエルサレム救済の期待を寄せていたが、期待も虚しく、今はエルサレム陥落の報を聞き、落胆している。その捕囚民にエゼキエルはエジプト滅亡の預言を語り聞かせる。
−エゼキエル32:1-6「第十二年の十二月一日に、主の言葉が私に臨んだ『人の子よ、エジプトの王ファラオに向かって嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。国々の中で若獅子である者よ、お前は滅びに定められた。お前は水中の鰐のようだ。川の中であばれ回り、足で水をかき混ぜ、流れを濁らせた・・・私は多くの民を集め、お前の上に網として広げる。彼らはこの地引き網でお前を引き上げる。私は、お前を大地に投げ出し、野に投げ捨てる・・・私はお前の肉を山の上に捨て、お前の腐った肉で谷を満たす。お前の流れ出た血を大地にのませ、山に注ぐ。お前の血で谷間も満たされる』」。
・エジプト王は自分を百獣の王、王の中の王と誇った。しかし彼の実態は泥の中で動きまわる鰐にすぎない。主の手が彼を捕らえて地に放り出せば彼は力を失い、その肉は鳥や獣に食べられるだけの存在だ。「イスラエルよ、お前たちはこのような者を自分の祖国を救う者として頼っていたのだ」とエゼキエルは捕囚民に宣告する。
−エゼキエル32:9-10「私はお前の破滅を、お前の知らない国々の民に知らせ、多くの民の心をいらだたせる。私はお前の故に多くの民をぼう然とさせる・・・お前の倒れる日、彼らはそれぞれ命に不安を感じて絶え間なく震える」。
・この預言はバビロニアの創造神話に準拠して語られる。バビロニア神話では、巨大な海の怪物(ティアマト)が混沌をもたらし、この怪物がバビロニアの神マルドゥークに殺される事によって、地上に秩序が回復する。エジプトの滅亡は新しい地の再創造であるとエゼキエルは述べている。
−エゼキエル32:11-15「バビロンの王の剣がお前に臨む。私は勇士たちの剣で、お前の軍勢を倒す・・・彼らはエジプトの誇りを踏みにじる。その軍勢も皆滅ぼされる。私はすべての家畜を豊かな水のほとりから追いやる。人の足はもはやその水を濁さず、家畜のひづめもこれを濁さない。そのとき、私はその水を澄ませ、流れを油のように静かに流れさせる・・・私はエジプトの地を荒廃させ、その地を満たしているものを荒れるにまかせる。私がそこに住むすべての者を撃つとき、彼らは、私が主であることを知るようになる」。

2.エジプトへの第七の審判預言

・第七の預言は滅ぼされたエジプト王と軍勢が陰府でたどる運命を提示する。剣で殺され、葬られることのない遺体は陰府の一番奥にしまわれる。地上で権勢を振るい、多くの者を悩ませた者たちは陰府において不名誉な扱いを受ける。
−エゼキエル32:18-20「あなたと諸国の娘たちは、エジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ。私は彼らを地の低い所に下らせる、穴に下って行く者と共に。お前は・・・下って行き、割礼のない者と共に横たわれ。彼らは剣で殺された者の間に倒れる。エジプトは剣に渡された。エジプトとその軍勢はすべて運び去られた」。
・割礼を習慣とするエジプト人にとって、割礼のない者と共に葬られることは恥辱だ。また戦って死んだ者が丁重に扱われないことも彼らには屈辱だ。エジプト人は地上の平和を乱し、多くの者を苦しめた故に、同じ罪を犯したアッシリア人やエラム人、メシェク人とトバル人、エドム人と同じ場所に葬られる。
−エゼキエル32:21-30「陰府の中から、最も強い勇士たちが、エジプトとその同盟者たちに語る、割礼のない者、剣で殺された者たちは下ってきてそこに横たわる、と。そこには、アシュルとその仲間がすべており・・・アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり・・・エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓は・・・地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが、穴に下る者と共に恥を負う。殺された者たちの間に、床が設けられた、エラムとそのすべての軍勢のために・・・彼らは、遠い昔に倒れた勇士たちと共に横たわることはない。この人々は、武器をもって陰府に下り、剣を頭の下に、盾を骨の上に置いていた・・・そこにはエドムが・・・共にいる・・・そこには北のすべての君主たち、シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが、辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う」。
・エジプト王は恥辱の中で死に、陰府に下っても尊重されることはない。地上で奢り高ぶったからだ。
−エゼキエル32:31-32「『ファラオは彼らを見て、失ったすべての軍勢について慰められる。ファラオも、そのすべての軍隊も剣で殺された・・・まことに、私は生ける者の地に恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は割礼のない者の間に、剣で殺された者と共に横たわる』と主なる神は言われる」。
・ここにイスラエル人の考える陰府の世界観がある。墓は偉大な平等主義者だ。生きている時、どれほどの権勢を誇っても、死ねば他の者たちと共に葬られる。「墓を超える生はない」、その真理を知れば、この世の生き方も変えられる。
―ルカ12:20-21「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

*エゼキエル32章参考資料〜新約聖書は陰府の世界をどう考えるか

1.ルカ16:19-25から
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

2.ルカ16:19−25の釈義(市川喜一著作集から)
・イエスが語られた言葉の中で、珍しく死後の世界のことが語られています。人類は太古の昔から、死者は無に帰するのではなく、この世界とは別の世界に行くのだと考えてきました。その別の世界は天空にあるとも地下にあるとも考えられていましたが、地下の場合の方が多いようです。人が死後に行く世界は、民族によりさまざまな言葉で呼ばれています。イスラエルでは「シェオール」、ギリシャでは「ハデス」、日本では「陰府」、「黄泉国」などと呼ばれています。これらはみな地下の国です。もともとそこには善悪の区別はありません。そこは喜びも苦しみもない影のような世界です。善人も悪人も死ねばみなそこに行くのです。
・ところが、宗教思想の進展に伴って、因果応報や審判の観念が加わり、地上で悪を行った者は死後の世界で苦しみを受けるという「地獄思想」が形成されるようになります。ギリシャでも、最後の段階では「ハデス」は罪を犯した者に対して罰と浄化を課す地獄になっております。イエスは希望としての神の国を語られると同時に、地獄のことも真剣に語っておられます。イエスは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言っておられます(マタイ10:28)。その真剣さは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」というような言葉によく表れています(マルコ9:43-45)。ここで、「地獄に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」ことが、「命にあずかる」とか「神の国に入る」ことの反対として、身体の一部を失うことよりも真剣な問題として語られています。
・旧約聖書では、死者が赴く地下の世界は「シェオール」と呼ばれています。そこは神から遠く離れた、影のような存在のための場所と考えられていました。そこには審判とか罪の罰としての責め苦というようなものはありません。ところが、新約直前の時代になると黙示録的終末信仰が盛んになり、そこでは最後の審判がゲヒンノム(ヒンノムの谷)の火で象徴されて語られるようになります。ヒンノムの谷というのはエルサレム西南にある谷で、昔そこで子供を火で焼いて供えるという祭儀が行われたので不浄の土地とされ(エレミヤ7:31-32)、この時代には不浄物を焼く火が絶えることがなく悪臭ただよう谷になっていたのです。この「ゲヒンノム」がそのままギリシャ語で用いられて「ゲヘナ」となります。ですから、「ゲヘナ」とは最終的な審判によって定められる永遠の地獄を意味することになります。
・一方、すべての死者が赴く地下の世界「シェオール」には、ギリシャ語訳旧約聖書ではつねに「ハデス」という用語が用いられてきました。このように「ハデス」(陰府)と「ゲヘナ」(地獄)は基本的に違う事柄を指しているのです。「ハデス」はすべての人が死後に入って行く世界であり、それは最後の審判または復活の時まで存続する中間期的な世界です。「キリストは陰府に降り」と言われる時の「陰府」は、このような中間期の死者の世界です。それに対して「ゲヘナ」は最終的な審判によって永遠に神の呪いに定められた者が落ちる終末的な苦悩の場を指しています。ところが、この「ハデス」の方も二つに区分されるようになります。一つは神に祝福された義人の魂が入る所であり、イスラエルでは「アブラハムのふところ」と呼ばれ、貧しいラザロが入っていった所です。もう一つは、罪深い悪人が入る所で、そこでは火に焼かれるような苦しみがあるとされます。ラザロを憐れまなかった金持ちが落ちた所です。この苦悩を伴う死後の世界に「ハデス」(陰府)という名がそのまま用いられることになります。これが狭い意味での「ハデス」です。イエスが「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(ルカ10:15)と言われた時の「陰府」も、この狭い意味での陰府を指しています。
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