すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年7月13日祈祷会(詩編105篇、歴史を導かれる神)
1.歴史を導かれる神

・詩編105編・106編は歴史を導かれる神の働きを讃美する連続した詩編だ。105編は族長時代から出エジプトまで、106編は出エジプトからバビロン捕囚までを取り上げる。最初に「主の奇しき業を賛美せよ」と詩人は呼びかける。イスラエルにおいて「歴史は神の救済史」であった。History=His・Story、神の歴史だ。
−詩編105:1-6「主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌をうたい、驚くべき御業をことごとく歌え・・・主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。主の僕アブラハムの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ」。
・主はアブラハムと契約を結ばれ、イサク、ヤコブと契約を更新された。先祖はカナンの地を放浪した寄留者であったが、主は彼らを保護し、導かれた。そして「あなたにカナンの地を嗣業として継がせよう」と約束された。
−詩編105:8-15「主はとこしえに契約を御心に留められる・・・アブラハムと結ばれた契約、イサクに対する誓いを。主はそれをヤコブに対する掟とし、イスラエルへのとこしえの契約として立て、宣言された『私はあなたにカナンの地を嗣業として継がせよう』と。その地で、彼らはまだ数少なく、寄留の民の小さな群れで、国から国へ、一つの王国から他の民のもとへと移って行った。主は彼らを虐げることをだれにも許さず・・・王たちに戒めて言われた『私が油を注いだ人々に触れるな、私の預言者たちに災いをもたらすな』と」。
・族長時代の歴史は文献や考古学では確認されていない。その意味で族長時代の歴史は、歴史というよりは伝承である。16節以下では先祖たちがエジプトに導かれ、そこで養われた歴史が回顧される。そここには主が「飢饉」を起こされて一族をエジプトに導かれたと記されている。苦難は主から来る、しかし主はその苦難を乗り切るために事前にヨセフをエジプトに送られる。「すべての歴史の背後に主がおられる」、それがイスラエルの信仰であった。
−詩編105:16-24「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。王は人を遣わして彼を解き放った・・・彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て、財産をすべて管理させた。彼は大臣たちを思いのままに戒め、長老たちに知恵を授けた。イスラエルはエジプトに下り、ヤコブはハムの地に宿った。主は御自分の民を大いに増やし、敵よりも強くされた」。

2.歴史をどう現代化するか

・25節からは出エジプトの歴史が歌われる。出エジプについては聖書以外の文献資料はなく、詳細は不明だ。
−詩編105:25-36「主が彼らの心を変えられたので、彼らは主の民を憎み、主の僕たちを悪だくみをもって扱った。主は僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉としるしを伝え、ハムの地で奇跡を行い・・・主はこの国の初子をすべて撃ち、彼らの力の最初の実りをことごとく撃たれた」。
・37節からは荒野の体験が歌われる。エジプトを出た民は荒野に導かれ、そこで「マナとうずら」により養われた。
−詩編105:39-41「主は雲を広げて覆いとし、火をもって夜を照らされた。民が求めると、主はうずらをもたらし、天のパンをもって彼らを満足させられた。主が岩を開かれると、水がほとばしり、大河となって、乾いた地を流れた」。
・出エジプトについてのエジプト側記録はない。歴史的にはエジプトの記録に残らないような、小規模の奴隷逃亡であったのだろう。しかしイスラエルからすれば、それは奇跡としか思えない救済史であった。人々は出エジプトと約束の地への移住を、アブラハムとの契約(地を与える)のために為されたと理解した。申命記26章は最古の信仰告白だ。
−申命記26:5-9「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました」。
・イスラエル人はアブラハムと為された契約「カナンの地を与える」を、現代も生きた契約として1948年の建国以来、土地所有の権利を主張してきた。他方、何百年もそこに居住してきたパレスチナ人は「土地は自分たちのものだ」と訴え、争いを繰り返している。私たちは族長物語を新たな視点で読み返さなければいけない。イサクは争いを避けるために、争いがなくなるまで井戸を掘り続けた。そのイサクの信仰こそ現代の争いの解決をもたらすのではないか。
−創世記26:19-22「イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いは『この水は我々のものだ』とイサクの羊飼いと争った・・・イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた・・・イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸を広い場所と名付け『今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった』と言った」。
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