すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年6月16日祈祷会(エゼキエル27-28章、ティルスの栄華とその没落)
1.ティルス(ツロ)への審判預言

・エゼキエル26-28章はティルスへの審判預言だ。ティルスはフェニキアの都市で、地中海交易により栄え、我が世の春を謳歌していた。バビロニアがユダを攻めた時、これを傍観し、商売仇の消滅としてこれを喜んだゆえに、主はティルスを罰せられるとエゼキエルは預言した。ヨエル書によれば、ユダ滅亡時、フェニキア人は略奪された物資や捕えられた人々を買取り、商品として売って利益を得たとある。信義より利を重んじた民族だ。
-ヨエル4:4-6「ティルスとシドンよ・・・お前たちは・・・私に復讐しようというのか。もし、お前たちが私に復讐するなら、私は直ちにお前たちの頭上に復讐を返す。お前たちは、私の銀と金を奪い、貴重な宝をお前たちの神殿に運び去った。ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り、自分の国から遠く引き離した」。
・ゼデキヤ王の11年(前586年)、エルサレムを落としたバビロニア軍は矛先をティルスに向け、町を包囲した。
しかしティルスはツロ(岩、要塞)と呼ばれたように、海に突き出た難攻不落の町であり、ネブカドネザルは13年の包囲の後、その攻略を諦めている。そのようなこともあって、ティルスは奢り高ぶっていた。
-エゼキエル27:3「海の出入り口を支配し、多くの島々を巡り、諸国の民と取引を行うティルスに向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。ティルスよ、お前は言う。『私の姿は美しさの極み』と」。
・ティルスは商業都市故に打算的、功利的な性格の町であった。神よりも人間の力や財力に自分の生きる基盤を求めていた。ティルスの王は言った「私は神だ」、その傲慢を主は打ち砕かれるとエゼキエルは預言する。
-エゼキエル28:2「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った『私は神だ。私は海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ」。

2.ティルスの没落

・傲慢への報いは滅びだ。ティルスは貿易に従事し、世界中と交易を行い、栄えていた。しかしその繁栄の礎となっていた貿易船が東風(バビロニア)により、座礁し、沈没するとエゼキエルは預言する。
−エゼキエル27:25-27「タルシシュの船はお前の物品を運び回った。お前は荷を重く積み、海の真ん中を進んだ。 漕ぎ手がお前を大海原に漕ぎ出したが、東風がお前を打ち砕いた。お前の富、商品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちは、お前が滅びる日に海の真ん中に沈む」。
・人は神ではない。その人が「自分は神だ」と言い始めるときに、裁きが始まる。アダムとエバも神のようになりたいとして禁断の木の実を食べた(創世記3:5)。
−エゼキエル28:4-9「お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取引に知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった・・・お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。それゆえ、私はお前に対して・・・最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。お前は自分を殺す者の前でもなお、私は神だと言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある」。
・ティルスはこの度のバビロニア軍の猛攻はしのいだ。だが、前332年、アレキサンダー王に攻撃され滅び、「裸の岩」になり、その後繁栄を取り戻すことはなかった。ティルス滅亡の記事は福島原発事故を想起させる。人々は、原子力平和利用は可能であり、リスクも制御できると考えた。しかし地震と津波で冷却電源が壊れただけで、原子炉炉心は融解し、放射能を拡散させ、今なお収束できない。エゼキエルの言葉が福島事故に覆い被さる。
−エゼキエル28:17-19「お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた・・・お前は悪行を重ね、不正な取引を行って、自分の聖所を汚した。それゆえ、私はお前の中から火を出させ、お前を焼き尽くさせた。私は見ている者すべての前で、お前を地上の灰にした。諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆、お前のゆえにぼう然とする。お前は人々に恐怖を引き起こし、とこしえに消えうせる。」
・ティルスとシドンの滅亡預言の後でイスラエルの救済預言が語られる。神はイスラエルを愛するゆえに滅ぼされ、愛するゆえに救済を準備される。その御心を知ろうとしない国々は滅ぼされていく(参照マタイ11:20-22)。
−エゼキエル28:24「イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らは私が主なる神であることを知るようになる」。
・ルカは自分のために蓄えても神の前に富まない愚かな人の記事を書く。ティルスと福島、考えるべき対比だ。
−ルカ12:20-21「神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

*エゼキエル27−28章参考資料〜「原発事故に寄せて」鈴木 牧人(郡山コスモス通り教会牧師)
(出典:日本バプテスト連盟宣教研究所宣研ニュースレター84 2011.5.18 から要約)

私が精密機械工学部の学生だった頃、卒業研究でお世話になった大学の教授と慰安旅行に行くことになった。その時、立ち寄った遊園地のジェットコースターを眺めながら、教授がこんなことをおっしゃっていた。「あのジェットコースターには日本の技術が詰まっている。だけど、あのジェットコースターの技術の凄さは、速いスピードなんかじゃない。加速したジェットコースターをいかに短い距離で安全に止めるか、そこに物凄い技術が詰まっている。難しいのは走らせることじゃなくて、きちんと止めることだ。きちんと制御し、安全に止めることができなければ、走らせてはいけないのだ」。この言葉は、ジェットコースターに限らず、人が生み出す全ての科学技術に対して言えることではないだろうか。人が生み出す科学技術が目指すものは、単に物凄いスピードで走らせることでもないし、爆発的な力で動かすことでもない。肝心なのはそれを制御し、止める技術である。難しいのは走らせることではなく、止めることなのである。それゆえ、きちんと止めることができなければ走らせてはいけない。しかし、この大切な原則を無視して走らせてしまったものが、原子力発電所なのではないだろうか。私たちが止める術ももたないままに走らせようとしてきた・・・。原子力のそもそもの問題が、ここにあるのではないかと思う。

今回の原発事故を通して、放射能というのは「見えないものを破壊する力」であることを痛感する。それは、一義的には放射能を通して、人体に見えない形で害を及ぼすということが考えられる。しかし、同時に、今回の放射能の問題を通して、様々な見えないものが壊されている現実を見せられている。原発事故から避難するため、長年、住み慣れてきた土地から引き離されている人々がいる。彼らは家を失い、仕事を失い、それまで自分たちが建てあげてきたもの全てを失ってしまった。また、その中で、家族や友人たちとも離れ離れになって暮らさなければならなくなってしまった。郡山という地は、現在、避難区域から避難してきた人たちを受け入れている場所である。しかし、郡山に住んでいる人が他県に避難しているケースがたくさんある。そのように、現在、郡山では、原発事故の影響で、それまで築かれてきたコミュニティが様々な形でバラバラに引き裂かれてしまっているのである。

ある方が、原発の安全への信頼度は、ほとんど「偶像信仰」のような域だとおっしゃっていた。今回の事故を受けて、周辺に住んでいた人たちや自治体の方々は皆、口をそろえて、「原発は安全だと聞かされてきた」と話している。加えて、原発の安全を管理している保安院や東電関係者までもが「自分たちは、原発が安全だと信じてきた」と発言している。そのように、原発に関しては、安全という言葉だけが、繰り返し、語られ続けてきた。そして、多くの人々はその言葉を信じるしかなかったし、信じきってきたのである。それは、まさに現代の偶像信仰の有様である。そして、その有様をみる時、創世記3章に記されている蛇とエバのやり取りが重なってくるように思えてならない。原発は安全。絶対に大丈夫。この言葉ばかりが一人歩きをしていく中で、多くの人々が原発を容認し、推進していった。その姿というのは、誘惑の言葉に惑わされるエバの姿そのままなのではないだろうか。人々が、原発は安全だと信じ込んでしまった時、原発はいかにも魅力的に見えた。原発は儲かる。地域を豊かにする。温暖化防止の切り札のように思える。そんな思いの中で、もはや人々が原発に突き進むのを止めることはできなくなってしまった。その結果、どうなっただろうか。善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは取り返しのつかない状況になってしまった。しかも、彼らだけの問題だけではなく、神は「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」と宣告したのである。この言葉が、今、私たちに突きつけられる。最初の人が犯した過ちそのままに、私たちが突き進んだ歩みによって、土地は汚れてしまった。祝福されていたはずの美しい自然がことごとく汚れてしまったのである。

原発問題には、様々な形での「人間の罪の縮図」があるように思う。そんな中、今回の原発事故の周辺で起こっていることは、私たちの罪が結ぶ実として起こっていることなのかも知れない。しかし、人の罪の傍らには、いつでも主の十字架が立っている。私は、事故で吹き飛んだ鉄骨がむき出しになってしまっている原発建屋が、主の十字架に重なって見えることがある。しかし、私たちがその十字架と向き合う時、そこには救いの道があるのである。今尚、原発事故の只中で、格闘している人がいる。劣悪な環境の中で作業に従事されている方がいて、避難所で大変な暮らしをされている方がいる。様々なことを犠牲にして奉仕をされている方がいる。私はその方々のことを思う時、その只中に主の十字架の御苦しみがあることを痛感する。同時に、私たちがその方々の痛みに寄り添い、伴っていく時、そこに神の国の福音のメッセージが聞こえてくるのではないだろうか。主は、そこに居まし、私たちと共なり、私たちに復活の希望に至る救いの道を拓いてくださるのである。
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