すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年6月8日祈祷会(詩編100篇、喜びを持って主を礼拝する)
1.神殿入場で歌われた賛美

・詩編100編は95編から始まる「王の詩編」の最後である。王の詩編は前516年に再建された第二神殿で歌われたものであり、本詩の時代背景も捕囚解放後であろう。詩篇100編は神殿入場の折に歌われた賛歌とされる。
−詩編100:1 -2「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」。
・詩人は全地に「共に賛美する」ように求める。主はイスラエルの神であると同時に全地の神でもあるからだ。捕囚前のイスラエルにとって、神とは民族の神(アブラハム・イサク・ヤコブの神)であり、捕囚〜異国幽閉〜解放を通じて、「主なる神こそが全地の神である」との信仰を持った。捕囚はイスラエル人の視野を広げた、恵みの出来事であった。
−イザヤ56:6-7「主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚
すことなく、私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す・・・私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。
・詩人は「喜びを持って主に仕えよ」と歌う。人間がその王に仕える時は、恐れおののいてその前に出る。神なき民の支配原理は「威嚇と恐怖」だ。しかし神の前に人間は恐れる必要はない、なぜなら神は民を愛し、憐れまれる方だからだ。今、日本人は強いリーダーシップを求めて首相を代えようとしている。しかし、強いリーダーとは独裁者のことだ。私たちは王を求めたイスラエル人に語ったサムエルの言葉を聞き、人間に仕えることの意味を知るべきだ。
−サムエル上8:11-18「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ・・・王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える・・・こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」。

2.ヘセドとエメト

・「主こそ王である」ことを知れと詩人は歌う。人を信じ、人に依存する者は、最後には失望する。今回の震災で、「人間の絆」、「君は一人ではない」、「人間を救うのは人間だ」等の言葉がもてはやされている。「神なき民」は人に頼らざるを得ないが「人の真実は破れる」。私たちは「神の真実は破れない」ことに目を向ける。
−詩編100:3 「知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」。
・神こそ真の羊飼いである。人間の羊飼いは羊よりも自分のことに心を向け、その結果、羊は「飼う者の居ない」状況に追い込まれる。しかし、その散らされた群れを主は再び集めてくださる、なぜならば主こそ真の羊飼いだからだと捕囚期の預言者エゼキエルは預言した。
−エゼキエル34:2-12「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない・・・彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった・・・見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない・・・見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」。
・マタイは記す「(イエスは)群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)。神とはそのような方だ。神は私たちを不毛の異国から救い出し、豊かな牧草地エルサレムに連れ戻してくださった。だから私たちは感謝と賛美を主に捧げるのだと詩人は歌う。
−詩編100:4「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ」。
・人々は感謝の捧げ物を持って主の神殿に入り、前庭から中庭に進む。そして賛美する。詩編100:5「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」。「慈しみ」はヘセド、「真実」はエメトである。ヘセドとエメトは旧約においては大事な言葉だ。主の憐れみが真実であるからこそ、私たちはどのような状況下でもそれを信じて希望を抱くことができる。そして希望を持つ者の生活は変えられる。「神を知る」とはヘセドとエメトに生きることだ。
−詩編136:1-3「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」。
・ローマ皇帝は「崇高なる神の子」とされ、初代教会はこれを拝むように命じられた時、拒否して迫害されていった。日本の国歌「君が代」は天皇の支配の永遠なれを歌う歌であり、東京都や大阪府の教育委員会は国歌斉唱時に起立しない教師の処罰を決めた。私たちはこれを黙認するのか、それとも信教の自由の侵害として告訴するのか。ヘセドとエメトを生きるものはどうすべきなのだろうか。
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