すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年6月1日祈祷会(詩編99篇、聖なる神)
1.内向きになるイスラエル

・詩編99編は王の賛歌であり、捕囚後に再建された神殿で歌われたものであろう。しかし他の王の賛歌においては諸国民に「共に賛美せよ」と呼びかけられているが、本詩はその範囲を自国民(ヤコブ)に限定している。エズラ・ネヘミヤ時代にイスラエルは異民族と結婚しないことを誓ったが、そのような保守化の中で作られた詩であろうか。
−詩編99:4-5「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め、ヤコブに対する裁きと恵みの御業を、御自ら、成し遂げられる。我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方」。
・本詩において、「主は聖なる方」という言葉が繰り返されている(3節、5節、9節)。
−詩編99:1-3「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方」。
・「主が聖であるからあなたたちも聖であれ」と聖書は繰り返す。「聖である」とはどのようなことだろうか。
−レビ記20:26「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである」。
・神の聖別は祝福であるが、「聖であれ」という命令は、隣人への分離になる危険性を持つ。エズラ・ネヘミヤ時代に、異民族、特にサマリヤ人との交わりを汚れたものとして排斥する方向になった。99編の詩人もその影響下にある。人間は聖なる者になることは出来ない。それを忘れた時、信仰は民族化・排他化する。それは主の望まれることではない。
−ネヘミヤ10:30-31「神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約する。私たちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘を私たちの息子の嫁にしない」。
・これを捕囚時代のエレミヤの言葉と対比すれば違いは明らかである。エレミヤは異国の地で息子・娘を結婚させ、民を絶やすなと書き送った。サマリヤ人と自由に交わられたイエスを見た時、私たちの方向性は明白だ。
−エレミヤ29:4-7「私は、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。私が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。

2.主が聖であるとはどのようなことか

・主は聖なる方であり、超越者である。しかし主は、天に鎮座する方ではなく、人が求めればそれに応えてくださる方だ。詩人は主に導かれてエジプトからの解放を行ったモーセやアロン、主に導かれてサウルやダビデに油を注いだサムエルの事柄を思い起こしている。三人に共通するのは、民のためにとりなす祭司の働きを行ったことであった。
−詩編99:6-7「主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた。神は雲の柱から語りかけ、彼らに掟と定めを賜り、彼らはそれを守った」。
・モーセは「民を赦すために必要ならば私の命をお取り下さい」と祈った。祭司の執り成しの祈りがここにある。
−出エジプト記32:31-32「この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば。もし、それがかなわなければ、どうかこの私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。
・パウロも同胞が救われるためならば自分が神から見捨てられても良いと祈った。聖書の信仰は個人の信仰にとどまらず、共同体の救いを願う信仰であり、祈りは執り成しの祈りとなる。私たちもまた隣人の救いのための執り成しを祈る。
−ローマ9:2-3「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。
・「主が聖」であっても、私たち人間は「聖なる者」になることはできない。使徒たちさえ民族主義から自由になれず無割礼の異邦人と交わることができなかった現実を私たちは冷静に見つめる必要がある(ガラテヤ2:11-13参照)。この限界を乗り越えるのは、私たちの思いを超えることを為される「聖なる主」への信仰だ。主は、一度は滅ぼされた、イスラエルの民を生かし、バビロンから救済された。この「聖なる方」に私たちはより頼んで生きる。
−詩編99:8-9「我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神、彼らの咎には報いる神であった。我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方」。
・福島原発事故を見て多くの信仰者は、バビロンの塔の崩壊を思った。バビロンの塔の崩壊は人間の驕りの砕きであった。私たちもこのたびの震災を通して、「人は原子力を支配できず、原発に頼る経済生活はいかに危険であったか」を知った。ドイツやスイスでは原発廃棄の動きが出ている。主の素晴らしい御業がここにあるのではないか。
−創世記11:5-7「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2011年5月25日祈祷会(詩編98篇、主は来られる)
カテゴリートップ
詩編
次
2011年6月8日祈祷会(詩編100篇、喜びを持って主を礼拝する)