すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年4月21日祈祷会(エゼキエル19章、王たちへの哀歌)
1.王たちへの哀歌

・エゼキエル19章ではイスラエル末期の王たちへの哀歌が歌われる。最初に歌われるのがヨシヤ王の子エホアハズだ。エジプト軍との戦いで死んだヨシヤの後継としてエホアハズが立てられるが、エジプト王の干渉により廃位させられ、エジプトに連行され、その地で死んだ。そのさまが悲運の若獅子として描かれる。
−エゼキエル19:1-4「イスラエルの君侯たちのために、あなたは悲しみの歌をうたって、言いなさい。お前の母は獅子たちの中にあって、どんな雌獅子だったろうか。お前の母は子獅子の間に伏し、若獅子たちを育てた。お前の母は子獅子の中から一頭を取り上げた。その子獅子は若獅子に成長し、獲物を取ることを覚え、人々を餌食とした。しかし、諸国の民は子獅子について聞いた。罠に捕らえられ、鉤にかけられて、エジプトの地へ連れて行かれたと」。
・エホアハズに代わってヨシヤ王の第二子エホヤキムが即位するが、彼の後ろ盾となったエジプトはバビロニア軍との戦いに負け、パレスチナから撤退し、エホヤキムはバビロニアと敵対し、包囲の中で死ぬ。子のエホヤキンが18歳で即位するが、3ヶ月後にエルサレムは陥落、エホヤキン王はバビロニア軍の捕囚となり、バビロンに幽閉される。
−エゼキエル19:5-9「お前の母は期待が破れ、望みがうせたのを見て、別の子獅子を取り、若獅子に育てた。この子獅子は獅子たちの間を歩き回り、若獅子に成長し、獲物を取ることを覚え、人々を餌食とした。彼は彼らの城郭を破壊し、町々を荒廃させた。そのほえたける声に、地と地を満たすものはおびえた。諸国民は周囲の国々から彼に立ち向かい、彼の上に網を広げ、彼は罠に捕らえられた。彼は鉤にかけられ、籠に入れられ、バビロンの王のもとに連れて行かれた。彼らは獄に彼を閉じ込め、二度とその声が、イスラエルの山々に、聞こえないようにした」。
・10節以下はユダ最後の王ゼデキヤへの哀歌である。エホヤキンを幽閉した後、バビロニア軍は叔父ゼデキヤを立てて王とするが、彼もやがてバビロニアに反旗を翻し、捕らえられ、ここにユダ王国は滅亡する。
−エゼキエル19:10-14「お前の母は水のほとりに植えられた、園のぶどうの木のようだ。多くの水のゆえに、豊かに実を結ぶ枝を張った。その木には支配者たちの杖となる強い枝があった。丈は雲間に届くほど高くなり、丈高く、枝が多いゆえに際立って見えた。怒りによって、木は引き抜かれ、地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし、強い枝はもぎ取られて枯れ、火がそれを焼き尽くした。今や、その木は荒れ野に、乾いた水なき地に移し植えられた。また、若枝の茂る太い枝から、火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には、支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた」。

2.この哀歌を通してエゼキエルが語りかけるもの

・この哀歌を通して、エゼキエルは何を伝えようとするのだろうか。彼が哀歌を歌った時、ゼデキヤはまだエルサレムの王であり、ユダも滅んでは居なかった。しかし預言者はゼデキヤが捕らえられ、バビロニアに移されることを見据えている。捕囚民の安易な希望(エジプト軍の助けでバビロニアが滅ぼされ、自分たちも解放される)を打ち砕くためだ。
−エゼキエル13:10-14「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言って私の民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ・・・豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。それゆえ、主なる神はこう言われる。私は憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。お前たちが漆喰を塗った壁を私は破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちもその中で滅びる。そのとき、お前たちは、私が主であることを知るようになる」。
・基礎ではなく表面に漆喰を塗ってごまかしてもダメなのだ。それは剥がれ落ちる。同様に、「自分たちが悪いのではなく、先祖が悪い。自分たちは被害者だ」と言い続けている間には救いは起こらない
−エゼキエル18:2-4「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか『先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と・・・お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない・・・父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」。
・裁き、あるいは砕きは必要だ。砕きを通して私たちは自分の罪を認め、悔い改め、主の御名を求める。捕囚がなければイスラエルの再生はなかった。エレミヤが言うように、捕囚は「滅びではなく、救いの計画」なのだ。
−エレミヤ29:10-14「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである・・・私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう」。
・今回の東北大震災は天災であり裁きではない。しかし原発事故は人災であり、裁きであろう。私たちは制御できない自然を制御できると高ぶった。その報いを今受けているのではないか。
−P.テイーリッヒ「人間は地の基を震い動かす力を創造的な目的のために、進歩のために、平和と降伏のために用いることができると考えてきた。人間は何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた・・・そして人間はその力をワルシャワ、広島、ベルリンで用いてきた。その結果、何が起きたのか」。
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