すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年4月27日祈祷会(詩編94篇、審判者なる神に委ねる)
1.驕り高ぶる者が栄える世にあって

・本詩は権力者の不当な抑圧に苦しむ詩人が、神に身を委ねることで平安を与えられた、その感謝を歌う詩である。いつでもどこでも権力者は傲慢になり、弱者をむさぼる。その中で詩人は、神が悪しき者を裁いて下さる様に祈る。
-詩編94:1-4「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください。主よ、逆らう者はいつまで、逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。彼らは驕った言葉を吐き続け、悪を行う者は皆、傲慢に語ります」。
・「報復の神」、人に代わって神が報復される、その審判に委ねよというのが、神の戒めであった(申命記32:35「私が報復し、報いをする」)。詩人もそれは分かっている。分かっているが、悪人のうそぶく言葉に苛立っている。
-詩編94:5-7「主よ、彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し、孤児を虐殺します。そして、彼らは言います『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」。
・悪を犯しても罰せられるわけではない。世の中では悪人が栄え、義人が虐げられるという現実がある。悪人はいつもうそぶく「神などいない、悪を行っても罰せられることはない」と。
-詩編73:11-12「彼らは言う『神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか』。見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく」。
・詩人はそれに反論する「神は見ておられる。悪しき者の企みを裁かれる」。そうでなければいけないはずだと。
-詩編94:8-11「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。人間に知識を与え、国々を諭す方に、論じることができないとでもいうのか。主は知っておられる、人間の計らいを、それがいかに空しいかを」。

2.私は報復しない

・詩人は苦難の中にある。彼の敵は彼を苦しめている。彼はこれまで悪人を告発し、「あなたは何故それを放置されるのか」と神を責めていた。しかしいくら悪を告発しても平安はなかった。その時彼は気づく「神はすべてを見ておられる。そして時が来れば正しい裁きをなさる。それを待とう」。そう思った時、彼に平安が臨んだ。
-詩編94:12-15「いかに幸いなことでしょう、主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。主は御自分の民を決しておろそかになさらず、御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう」。
・告発する人は、「自分は正しい」との前提に立つ。その時、自己の正しさと相手の正しさが対立し、混乱が深まる。そこから生まれるのは思い煩いだけだ。私たちは不正を告発するのではなく、神がそれを正される日を待ち望めば良い。
-詩編94:16-19「災いをもたらす者に対して、私のために立ち向かい、悪を行う者に対して、私に代わって立つ人があるでしょうか。主が私の助けとなってくださらなければ、私の魂は沈黙の中に伏していたでしょう。『足がよろめく』と私が言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。私の胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが私の魂の楽しみとなりました」。
・それは不正を、「見ざる、聞かざる、言わざる」として放置することではない。何故不正があるのか、神がどうしようとしておられるのかを祈っていくことだ。その時、ニーバーの祈りが想起される。
−ラインホルド・ニーバーの祈り「神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
・神の委託を受けて正しく民を治めるべき王が抑圧者となり、中立であるべき裁判官までが法を曲げる現実がある。そこには神の正義がないようにさえ思える。その中で神の正義に委ねていき、自分では報復しない。詩人はそう歌う。
−詩編94:20-23「破滅をもたらすのみの王座、掟を悪用して労苦を作り出すような者が、あなたの味方となりえましょうか。彼らは一団となって神に従う人の命をねらい、神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。主は必ず私のために砦の塔となり、私の神は避けどころとなり、岩となってくださいます。彼らの悪に報い、苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。私たちの神、主よ、彼らを滅ぼし尽くしてください」。
・2001年9月11日、テロ攻撃を受けた米国・ブッシュ大統領は、報復を求めて、アフガニスタンやイラクを攻撃した。それから10年、無意味な多くの血が流された。「自分の手で報復しない、神に委ねる」、それは命に関わる信仰なのだ。
-ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
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