すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年4月20日祈祷会(詩編93篇、地の基震え動くとも)
1.主こそ王なり

・詩編93編については「王の即位式」に歌われた賛美とする見方と、終末信仰を歌ったものとする見方に分かれている。この詩の成立が王国滅亡後であると思われることより、現実の王を失ったイスラエルが、「主こそ王である」という信仰に立って歌ったものであろう。最初の1−2節では、全世界の統治者である主が賛美されている。
−詩編93:1-2「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます」。
・「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」、イスラエルはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、王宮も焼かれ、異邦の地に捕囚となった。もう王を持つことはないと絶望していた。しかし主は私たちをそこから救い出し、故国に帰還させてくださった。今こそ私たちは知った「主こそ真の王であることを」と詩人は歌っている。亡国・捕囚・救済の出来事は地の基が震え動く出来事であった。しかしその中で主の礎は揺らがなかった。詩編46編も同じ喜びを歌う。
−詩編46:2-4「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」
・「潮は打ち寄せ、大水はとどろくとも、主の礎は動かない。何故ならば主こそが潮の基を定め、天地を創造された方であるから」と詩人は創造主なる主を賛美する。
−詩編93:3-4「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主」。
・イスラエルにおいては、水は原初の混沌の象徴である。創世記は、創造の前、「地は形無く、空しく=トーフー・ヤボーフー、闇が淵の表にあった」とする。淵=原始の海=テホーム。創造の前、地は混沌(カオス)であったが、そのカオスの中に光が創造された。闇を光が切り裂き、カオスが神の言葉によりコスモス(秩序)になった。
−創世記1:1-3「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』、こうして、光があった」。

2.地の基震え動くとも

・「天地は動くとも主の御座は動かない」というのが旧新約を通じた聖書の信仰である。今回の東日本大震災を経験して、改めて「地の基」が揺れ動くというイザヤ24:18の言葉が想起されている。イザヤは人間の罪の故に、天の水門は開かれ(大洪水が来る)、地の基は震え動く(大地震が起こる)との預言が記す。大地震と大洪水、まるでこの度の東日本大震災を預言したような箇所だ。
-イザヤ24:18-20「天の水門は開かれ、地の基は震え動く。地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない」。
・私たちはこのような終末預言をどのように聞くのであろうか。パウル・ティリッヒは、第二次世界大戦直後、イザヤ24:8「地の基ふるい動く」という説教を行った。二度の世界大戦を経験し、広島やアウシュヴィッツの悲惨を見た者は、人間の罪が「地の基」を震え動かしたと思わざるを得ない。
−「これらの言葉を真剣に取り上げないで過ごした数十年、否、数世紀さえもがあった。しかし、そうした時代は過ぎ去ったのである。今やわれわれは、こうした言葉を真剣に考えなければならない。なぜなら、彼らの言葉は、人間の大多数が今日経験し、またおそらく余り遠くない将来において全人類が嫌というほど経験することであろうこと、すなわち、『地の基がふるい動く』ということを目の当たりに見るように描いているからである。預言者の幻は、今や歴史的現実とさえなろうとしている」。
・日本列島は地震と噴火と津波と台風のリスクにつねにさらされている。天災は列島住民にとって不可避の運命である。だから、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を国民文化として知っている。そして、私たちは誰でもそこから立ち直る。しかし、今回の大震災の問題点は原子力発電所の被災とそれに伴う放射能汚染を回避できなかった人災にある点だ。人間は自ら制御できないものを制御できると過信したのではないだろうか。ティリッヒは語る。
−「人間は地の基を震い動かす力を創造的な目的のために、進歩のために、平和と幸福のために用いることができると考えてきた。人間は何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた・・・そして人間はその力をワルシャワ、広島、ベルリンで用いてきた。その結果、何が起きたのか」。
・天災は罪の結果ではない。しかし人災は罪の結果だ。主から自然の管理を委ねられているだけの存在であるのに、いつの間にか自然を支配できると思い込んだ人間に対する裁き、あるいは警告として今回の原発事故があるのではないか。
-イザヤ24:5-6「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされわずかの者だけが残された」。
・例え地の基は震え動くとも、そこに「動かざる存在」がある。揺るがざる主を賛美する。それが詩編93篇だ。
−詩編93:5「主よ、あなたの定めは確かであり、あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り」。
・今回の震災に対して私たちはヨブ記を読み直すべきであろう。神は神であり、人は人であることを知るために。
−ヨブ記38:1「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。
・しかし裁きは滅びではない。主は裁きを通して人間を救おうとされる。「裁きは救いである」、その信仰を持って今回の震災の意味を考えるべきであろう。
−イザヤ51:6「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、蚋のように死に果てても、私の救いはとこしえに続き、私の恵みの業が絶えることはない」。
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