すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年4月14日祈祷会(エゼキエル18章、自己の責任を認めよ)
1.自己の責任を認めようとしない捕囚の民

・エゼキエルの時代、捕囚民たちは「親の罪で自分たちは捕囚となり、不自由な生活を強いられている。自分たちは被害者だ」と言っていた。それを表現したのが、「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」という格言であった。先祖が悪いのであって、自分たちには責任はないという責任転嫁論である。
−エゼキエル18:1-2「主の言葉が私に臨んだ。『お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。“先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く”と』」。
・今回の大震災で、多くの関係者が「想定外」という言葉を用いた。東電の担当者は言った「想定外の規模の地震や津波が来たので、原発事故が起きてしまった」。しかし事故が拡大した背景には、原子炉が廃炉となることをためらったための初動対応の遅れがあると言われる。エゼキエルの告発する責任転嫁が今回の事故の中にもあるのではないか。
−エゼキエル18:3-4「私は生きていると主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」。
・主は言われる「親が正しくとも子が罪を犯せばその子は死ぬ」、その罪とは神に対する罪と隣人に対する罪である。
−エゼキエル18:10-13「彼に生まれた息子が乱暴者で、これらの事の一つでも行う人の血を流し、自分自身はこれらすべての事の一つですら行わず、かえって山の上で偶像の供え物を食べ、隣人の妻を犯し、貧しい者、乏しい者を抑圧し、力ずくで奪い、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て忌まわしいことを行い、利息を天引きして金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある」。
・14節以下に「しかし親の罪が子に及ぶことはない」と明言される。お前たちが今ここにいるのは父祖の罪の故ではなく、おまえたちの罪の故であると。おまえたちの悪が亡国という苦難を招いた、何故それを認めないのかと。
−エゼキエル18:14-17「息子が生まれ、彼が父の行ったすべての過ちを見て省み、このような事を行わないなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、人を抑圧せず、質物を取らず、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、貧しい者の抑圧から手を引き、天引きの利息や高利を取らず、私の裁きを行い、私の掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる」。

2.責任を認めたときに救いが始まる

・エゼキエルは言う「お前たちが自分たちの罪を認めない限り、お前たちに救いはない」。しかし、「お前たちが自分の罪を認め、悔い改めた時、神は赦して下さる。神は悪人さえも滅ぶことを喜ばれない方だ」とエゼキエルは説く。
−エゼキエル18:21-23「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、私の掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。私は悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」。
・「悪人であっても悔い改めれば赦される。逆に義人であっても悪の道に落ちれば裁かれる。そのことをわきまえよ」とエゼキエルは語る。救いは人間の為す善や悪の量で決定されるのではない。ここにカトリックの説く功績論(人間の善の累積が人を天国に導く)の誤りがある。
−エゼキエル18:24「しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ」。
・エゼキエルは自分たちの罪を認めようとしない捕囚民に迫る「認めない限り、滅ぶしかない」と。戦争責任について多くの日本人はいう「侵略戦争をしたのは父祖であり、私たちではない」。捕囚民と同じ論理ではないだろうか。
−エゼキエル18:25「それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。私の道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか」。
・人は自らの責任を神の前に問われる。エゼキエルは捕囚民に言う「悔い改めよ、滅びるな。お前が死んでも良いと私は思っていない」。私たちが、今回の震災を「不幸な出来事」に終わらせず、「恵みの出来事」にするためには、悔い改めが必要なのだ。今回の出来事は驕り高ぶる人間を砕いた「バベルの塔」の崩壊の出来事なのだ。
−エゼキエル18:30-32「『イスラエルの家よ。私はお前たちひとりひとりをその道に従って裁く』と主なる神は言われる。『悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私はだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。

*エゼキエル18章資料:阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること 内田 樹=神戸女学院大学教授 
〜「中央公論」2011年5月号掲載(部分抜粋)

地震と津波の傷は癒える
 震災体験者として言えることの一つは、天災の被害からは人は必ず立ち直れるということである。阪神・淡路大震災の直後は、「これだけ破壊された街はもう回復することはないだろう」と思っていた。しかし、驚くべきことに、一年後にはもう街は復活していた。蟻が角砂糖の粒を運んでいくように、少しずつではあるけれども、瓦礫の山は消えた。荒れ果てていた街に花が咲き、鳥が歌っていた。そのとき「自然の強さ」とともに、「人間の強さ」を感じた。日本列島は地震と噴火と津波と台風のリスクにつねにさらされている。天災は列島住民にとって不可避の運命である。だから、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を国民文化として知っている。それは親を亡くす経験に近い。個人的には恐るべき不幸であり、取り返しのつかない喪失感をもたらすけれど、それはある意味避けることのできぬ不幸である。そして、私たちは誰でもそこから立ち直る。(中略)
 
福島原発の事故は人災だ
 問題は、「人災」の方である。天災のもたらした苦しみは時間が経過すれば遠のくが、人間の無力や愚かさがもたらした災厄については、そうはゆかない。私たちは「なぜそのようなことが起きたのか」について長い時間をかけて精査し、同じ不幸の再発を防止する手立てを考えなければならないからである。天災は避けられないが、人災は避けられる。避けられたはずの不幸に対する悔いは私たちを苛み続ける。なぜ福島原発事故は「人災」なのか。それは地震津波「以前」の備えと、「以後」の処理の両方について、重大な瑕疵が見られるからである。震災「以前」に不足していたもの。それは、危機意識である。政府や東京電力は原発事故直後から、「こんなことが起こるとは思ってもみなかった」という「想定外」を繰り返した。想定外の天災に襲われたための事故であって、私どもに瑕疵はないと彼らは言った。だが、この言い分には聞き逃すことのできないことがいくつも含まれている。一つはこの地震が「想定外」ではなかったことである。貞観地震(八六九年)は今回と同じく陸奥東方の海底を震源地とするM8・3以上の巨大地震である。このときは津波が平野部まで押し寄せ、千人を超える死者が出たと記録にはある。仙台平野が水没するほどの地震と津波はほぼ千年周期で起きていたのである。〇九年に東電から原発の安全性についての調査を委託されていた経産省の審議会は、貞観地震規模の巨大地震の再来可能性を指摘していた。これについて東電は「十分な情報がない」として対策を先送りした。そうであれば、今回の津波について「想定外」だったという言い訳は東電にはできないはずである。「そんなに大きな地震は来るはずがない」という東電側の判断(というより主観的願望)に基づいて、「想定内」と「想定外」の線引きが行われている。「想定外」のものなど自然界には存在しない。「想定外」を作り出すのは「想定する主体」、すなわち人間だけである。(中略)
 
危機時に「正解」はない
危機管理の条件は「ありもの」しか使えないということである。手元にある資材、人材、資源、そして時間しか使えない。その中でやりくりしなくてはいけない。それは危機の時には「正解がない」ということである。危機的状況というのは、必要な資材がなく、必要な人員がなく、必要な情報がなく、必要な時間がないということである。いちばんきびしいのは「時間がない」ということである。とくに原発事故の場合は、放射性物質がいったん漏出し始めると、人間がそこにいって作業できなくなるから「打つ手」が一気に限定される。今なら選択できるオプションが一時間後には選択できなくなるということがありうる。その場合の「今できるベスト」は「正解」とはほど遠いものとなる。 けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。(中略) 

ほうれんそう事故
事故の現場には「今はこうするのがベストだ。すぐに動こう」という具体的提案をした人がいたと私は思う。現場の人間は「正解」を待つことなく、「今できる最適のこと」を選ぶ訓練を受けている。でも、「上の人間」がその決断にストップをかけた。「軽はずみに動くな。上からの指示があるまで待て」。そして指示を求められた「上の人間」はまたさらにその「上の人間」に指示を仰いだ……そんなふうにして初動の貴重な数時間、数十時間が空費され、事故は手の付けられないところまで拡大していった。「ほうれんそう」、「報告・連絡・相談」抜きで事を決してはならないということを日本の組織内労働者は耳にたこができるまで叩き込まれている。原発事故はある意味で「ほうれんそう」の産物であるとも言える。放射性物質の汚染が懸念されて出荷制限を受けた野菜と同じ名前であるということは奇縁というほかない。
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