すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年3月17日祈祷会(エゼキエル14章、心に偶像を秘めながら求めても)
1.心に偶像を秘めながら求めても

・エゼキエル14章は、捕囚地の長老たちがエゼキエルに主への執り成しを依頼したことに対して、主が語られた言葉である。人々は「自分たちが早く捕囚から解放される」ように、「故郷のエルサレムが無事である」ようにとの願いを主に執り成してくれるように求めた。その人々にエゼキエルは言う「心に偶像を秘めて主を求めて、主が答えられるだろうか」。
-エゼキエル14:1-3「イスラエルの長老数名が私のもとに来て、私の前に座った。そのとき、主の言葉が私に臨んだ『人の子よ、この人々は偶像を心に抱き、彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている。それなのに、私は彼らの求めに応じられようか』」。
・人々は主の憐れみを求めながら、同時に偶像の神々にも願かけをしていた。バビロンの神々に祈れば捕囚が許されるかもしれないし、エジプトの神々に祈ればエルサレムが救済されるかもしれない。人々は二重にも三重にも拝んでいた。エレミヤ書では、敗戦でエジプトに逃れた人々は、「天の女王」への礼拝を欠かしたから不幸が臨んだと考えていた。
-エレミヤ44:17-18「我々は・・・天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いで献げ物とする。我々は、昔から父祖たちも歴代の王も高官たちも、ユダの町々とエルサレムの巷でそうしてきたのだ。我々は食物に満ち足り、豊かで、災いを見ることはなかった。ところが、天の女王に香をたくのをやめ、ぶどう酒を注いでささげなくなって以来、我々はすべてのものに欠乏し、剣と飢饉によって滅亡の状態に陥った」。
・捕囚末期の第二イザヤ書にさえ、偶像礼拝への戒めが出てくる(イザヤ46:1-4)。捕囚地にも偶像礼拝が横行していた。偶像神を拝むとは目先の安全や利益を求めることであり、それは与えられた災いの意味を考えることを止めさせ、真の悔い改めを妨げる。安易な救済ほど人心を荒廃させる。だから主は偶像を心に秘めながらの祈りを拒絶される。
-エゼキエル14:4-5「イスラエルの家の者で、偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なる私自身が、彼の多くの偶像のゆえに答えよう。それは、偶像のゆえに私から離れ去ったイスラエルの家の心をすべて、私が捕らえるためである」。
・偶像とは太陽や月や自然に対する畏れだけでなく、目に見える神を求める人間の欲望だ。キリスト者は仏像や神像を偶像と批判するが、そのキリスト者さえ、十字架や聖画を拝み、聖人の遺物やマリア像を拝んでいる。偶像礼拝は信仰の根本問題であり、それは安価な恵みを求める人間のエゴなのだ。
-ボンヘッファー・キリストに従うから「安価な恵みとは、説教、原理、体系としての恵みのことである。一般的真理としての罪の赦しのことである…安価な恵みとは罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない…安価な恵みとは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである…高価な恵みは服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがするゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈物として与えるがゆえに恵みである」。

2.例え義人がいても

・預言者の役割の一つは執成しの祈りである。しかしエゼキエルはノアやダニエル、ヨブのような義人が執り成してもエルサレムは救い得ぬと断言する。
-エゼキエル14:12-14「主の言葉が私に臨んだ『人の子よ、もし、ある国が私に対して不信を重ね、罪を犯すなら、私は手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ』、と主なる神は言われる」。
・捕囚の人々は「エルサレムにも何人かの義人が残っているはずであり、神はエルサレムを滅ぼされない」という藁にもすがる楽観論にすがっていた。エルサレムの滅亡は帰還先の喪失〜捕囚の長期化であり、人々は現実を見つめようとはしなかった。安易な楽観論こそ人々の悔い改めを妨げ、真の救済を遅らせる故に戒めなければいけない。
-エゼキエル14:15-16「私が悪い獣をその国に横行させ、それによって住む人がいなくなり、獣を恐れて通る人がないために国が荒れ廃れるなら、その中にかの三人の人物がいたとしても、私は生きていると主なる神は言われる、彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らは自分自身を救いうるだけであり、その国は荒廃に帰するであろう」。
・ノアは古代メソポタミヤ神話の義人、ダニエルはカナン神話の善王、ヨブはエドム神話に出る義人である。いずれも旧約の人物であるが、近隣民族の神話が物語化(ノアの洪水、ヨブの苦難、ダニエルの勇気)されて、聖書の人物になったと思われる。創世記は捕囚時代に書かれたが、その18章にはアブラハムがソドムのために執成すが聞かれなかった出来事が記されている。人々はこの問答の中にエルサレム滅亡の原因を探っている。
-創世記18:22-25「アブラハムは進み出て言った『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」。
・なぜ義人がいても救いがないのか。それは神の前に「罪なし」と言える義人などいないからだ。人がその罪を認め、悔い改めることなしには救いはない。救いは人の義の上にではなく、神の憐れみの上にしかないのだ。
-ローマ3:9-18「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない・・・彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。

3.滅びを通しての救い

・列王記は滅亡後に書かれた故に、現実を冷徹に見つめる。例えヨシヤのような義人も、神の目からは罪人にすぎない。だから滅ぶ者は滅び、その滅びの先にこそ、本当の救いがある。
-列王記下23:25-27「彼のように・・・心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。主は言われた『私はイスラエルを退けたように、ユダも私の前から退け、私が選んだこの都エルサレムも、私の名を置くと言ったこの神殿も私は忌み嫌う』」。
・その救済の言葉が14章21節以下にある。エルサレム滅亡の中でも残りの者が残され、捕囚民としてバビロンに送られ、そこで新しい民族を構成して行く。
-エゼキエル14:21-23「主なる神はこう言われる。私がこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、私がエルサレムにくだした災い、私がそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、私がそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになると主なる神は言われる」。
・徹底した滅び、希望の遮断という裁きこそ、人々に現実を見つめさせ、悔い改めと救いをもたらすことを銘記したい。
-申命記30:1-6「私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。
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