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トップ  >  エゼキエル書  >  2011年3月3日祈祷会(エゼキエル12章、捕囚のしるしを示せと命じられる預言者)
1.捕囚民に対する幻想の警告

・エルサレムの腐敗を見せられたエゼキエルは、捕囚民に、エルサレムはやがて陥落し住民は捕囚とされることを象徴預言で示せと命じられる。捕囚民の多くは、「捕囚は間もなく終わり、自分たちはエルサレムに帰れる」と楽観化し、本当に悔い改めていなかった。その彼らにエルサレムの陥落と捕囚が預言される。「もう帰る所はない」ことを知れと。
-エゼキエル12:1-3「主の言葉が私に臨んだ『人の子よ、あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない。まことに彼らは反逆の家である。それゆえ、人の子よ、あなたは捕囚の荷物を造り、白昼彼らの目の前で捕らわれの身となって行きなさい。あなたのいる所から他の場所へ、彼らの目の前で捕らわれの身となって行きなさい。彼らは反逆の家であるが、あるいは、それに目を留めるかもしれない』」。
・「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」、現実を見つめようとしない捕囚民への批判だ。その彼らに示すために、持ち物をまとめ、壁に穴を開けて、そこから持ち出せと命じられる。
-エゼキエル12:4-6「あなたは、白昼彼らの目の前で、自分の荷物を、捕囚の荷物として持ち出しなさい・・・彼らの目の前で、荷物を肩に担ぎ、暗闇の中で運び出しなさい・・・私はあなたを、イスラエルの家に対するしるしとする」。
・人々はエゼキエルの奇妙な行為を見て、その意味を尋ね、エゼキエルは「エルサレムの首長とそこの住民に起こる出来事だ」と説明した。ユダ王ゼデキヤは城壁が破られると逃亡したが捕えられ、目の前で子供たちを殺され、彼自身の目をくり抜かれ、足枷を嵌められて捕囚とされた(列王下25:4-7)。
-エゼキエル12:8-14「人の子よ、反逆の家、イスラエルの家は、あなたに向かって、何をしているのかと尋ねなかったか。あなたは、彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる『この託宣は、エルサレムの首長と、そこにいるイスラエルの家すべてにかかわる・・・私がやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。彼らの中の首長も、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、壁に運び出すための穴をうがって出て行く・・・私は、彼の上に網を広げ、彼は私の罠にかかる。その彼を私はカルデアの地、バビロンに連れて行くが、彼はその地を見ることはできず、そこで死ぬ。私は、彼を取り巻くすべての従者と軍隊とを、四方にまき散らし、剣を抜いてその後を追う』」。
・預言は続く「エルサレムの住民たちは震えながらパンを食べ、水を飲むだろう」と。
-エゼキエル12:19-20「国の民に言いなさい。主なる神は、イスラエルの土地にいるエルサレムの住民に向かってこう言われる。彼らはおびえながらパンを食べ、硬直した様で水を飲むようになる。その地が住民すべての不法のゆえに、地を満たしていたものを失い、荒れ廃れるからである。人の住んでいた町々は荒れ果て、この地は荒廃に帰する。そのとき、お前たちは、私が主であることを知るようになる」。

2.裁きを裁きとして受け入れていく

・「私が主であることを知るようになる」と言う言葉がエゼキエル書には63回も出る。事態を楽観視し、悔い改めない民に、裁きを通して御旨が示される。しかし捕囚の人々は言った「日々は長引くが、幻は全て消えうせる」。「何事も起こらない、エルサレムは不滅だ」と人々は言っていた。その楽観論を砕くと主は言われた。
-エゼキエル12:21-24「人の子よ、イスラエルの土地について伝えられている、“日々は長引くが幻はすべて消えうせる”というこのことわざは、お前たちにとって一体何か。それゆえ、彼らに言いなさい・・・私はこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはないと。かえって彼らにこう語りなさい。“その日は近く、幻はすべて実現する”。もはや、イスラエルの家には、むなしい幻はひとつもない。気休めの占いもない」。
・また人々は言っていた「彼の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである」と。それに対して主は言われる「お前たちの生きている時代にそれは起こる」と。
-エゼキエル12:25-28「反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、私は自分の語ることを実行する、と主なる神は言われる・・・人の子よ、イスラエルの家は言っているではないか『彼の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである』と。それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私が告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される、と主なる神は言われる」。
・いつの時代も人々は主の言葉を真剣に聞こうとせず、悔い改めようともしない。世の終わりが来るとの警告を人々は嘲笑する。災いが起きないと人々は悔い改めないのだ。だから災いは起こる。エルサレムは滅ぼされ、私たちの生活の土台が覆される事態が起きる。「目を覚ましていなさい」とイエスも言われる。
-マタイ24:37-42「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」。

*エゼキエル12章参考資料「エゼキエルの預言者的象徴行為の現代における意味」

2011年2月21日朝日新聞で「読まれるキリスト教、特集の雑誌・書籍、相次ぎ刊行」という記事が掲載された。昨春以降、キリスト教や聖書を特集した雑誌や書籍が続々と発売され、おおむね売れ行き好調だという。

・記事は記す「東京・丸の内の大型書店「丸善」。雑誌が並ぶ平台の真ん中に、男性誌「Pen」(阪急コミュニケーションズ)の新年合併号「キリスト教とは何か供廚汎瓜錣諒椋「キリスト教とは何か。」、最新号で「聖書入門」を特集する「日経おとなのOFF」(日経BP社)が積み上げられている。専門書売り場担当の工藤吉隆さんはいう。「昨年の『Pen』を皮切りにキリスト教関連の雑誌や書籍が次々と出た。どれも、なかなか堅調です」。発端の「Pen」とは、昨年3月号の特集「完全保存版 キリスト教とは何か」だ。絵画や建築といった西洋美術を紹介しつつ、聖書の概要などを70ページ以上展開。初版11万部を2週間でほぼ完売し、特集を増補して同年5月に発売された別冊も初版の13万部を完売した。いずれも、書店に加えてコンビニエンスストアでもよく売れる、ふだんとは違う売れ方だった。
・「Pen」とほぼ同じころに発売された季刊誌「考える人」(新潮社)も、「はじめて読む聖書」を特集して好評だった。新約聖書学者、田川建三さんへの大型インタビューに始まる重厚な構成で、初心者にとってはやや敷居の高い内容だったが早期に完売し、同誌の中で最も売れた企画の一つとなった。以後、ムック「キリスト教を知りたい。」(昨年6月、学研パブリッシング)、新書『新約聖書機戞愎渓鸚蚕餃供戞丙鯒10〜11月、佐藤優解説、文芸春秋)、版画家ギュスターブ・ドレの画集『旧約聖書』『新約聖書』(昨年11〜12月、宝島社)などが発売。今年に入っても「日経おとなのOFF」などへと流れは続いている。
・なぜキリスト教の企画が受けるのか。キリスト教を題材にした西洋美術の美しい「図版」は魅力的だが、「Pen」編集長の安藤貴之さんは「あえて企画をアート寄りではなく、教養としてのキリスト教入門に重点を置いた」と話す。 「多くの人は西洋美術に接するたびに『キリスト教をもっと知っていたら理解が深まるのに』と思うものの、断片的な関心に終わっていた。その断片化した関心を結びつけた結果、読者の無意識レベルの知識欲を刺激したのではないか」。 「考える人」編集部の須貝利恵子さんは「以前の特集『海外の長篇小説ベスト100』で旧約聖書を挙げた人がいた」という。「聖書は壮大な物語として読めるし、神話や歴史、寓話(ぐうわ)や詩など文学表現のアンソロジーでもある。聖典としてではなく一冊の本として企画化したことが、読まれた理由では」。2人の指摘の共通項は「知識欲」だ。確かに昨今、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(ダイヤモンド社)や『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)といった「プチ教養本」が売れている。
・では、なぜキリスト教か。「日本人は近代以後ずっとキリスト教に関心を持ち続けてきた」と宗教学者の島田裕巳さん。「それも信仰心の薄い日本人にとって宗教への関心ではなく、『なぜこんなに真剣にキリスト教なる宗教を信じる人々がいるのか』という関心です。ミステリー小説への関心に近い」。 昨秋、新書『聖書に学ぶビジネスの極意100』(ワニ・プラス)を著した作家の江上剛さんは、時代の閉塞(へいそく)感と「言葉」がカギだと指摘する。 「(元首相の)小泉さんのワンフレーズは印象的だったが、イエスの言葉も歯切れがよい、いわば究極のワンフレーズ。政治も経済もリーダー不在の時代に、迷いを消してくれるものが聖書にはあるだろう、という期待の表れではないか」

「なぜこんなに真剣にキリスト教なる宗教を信じる人々がいるのか」、それを世の人々は知りたいとすれば、それが示すものが、エゼキエルの行った象徴預言ではないか。信仰者として「世の光、地の塩」として生きたいとすれば、それにふさわしい行為が求められる。それが「象徴預言」ではないだろうか。
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