すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年2月24日祈祷会(エゼキエル11章、エルサレムの破壊と捕囚民への祝福)
1.エルサレムに残った人々の傲慢

・エゼキエルは幻の中にエルサレムに運ばれ、そこで指導者たちが神殿に背を向け、太陽を拝んでいるのを見た(8:16)。彼らは王の側近たちで、「家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で我々は肉だ」と言っていた。
-エゼキエル11:1-3「霊はまた、私を引き上げ、主の神殿の東に面する東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者であるアズルの子ヤアザンヤと、ベナヤの子ペラトヤがいるのを私は見た。主は私に言われた『人の子よ、この人々はこの都の中で悪をたくらみ、悪い計画を立てている。彼らは、家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だと言っている』」。
・「都は鍋で私たちは肉だ」、火が燃え盛っても鍋が溶かされることがない、北から火(バビロニア)が来てもこの都が滅ぶことはない。神殿がある以上、われわれは安全で、籠城していればエジプト軍が助けに来るだろうと彼らは高をくくっていたのであろう。戦前の日本人も「日本は神国であり負けるわけがない」とうそぶいていた。その彼らに主は、「エルサレムの指導者たちを都から引き出し、国境で裁く」と言われる。
-エゼキエル11:5-11「都は鍋である。しかし私は、お前たちをそこから引き出す。お前たちは剣を恐れているが、私はお前たちの上に剣を臨ませる・・・私はお前たちをそこから引き出して、異国人の手に渡し、お前たちに対する裁きを行う。お前たちは剣に撃たれて倒れる。私はイスラエルの国境でお前たちを裁く・・・この都が、お前たちにとって鍋となることはない。お前たちがその中で肉となることもない。私は、イスラエルの国境でお前たちを裁く」。
・バビロニア軍の侵攻にゼデキヤ王や側近たちは都から逃れたが、国境付近で捕えられ、敵軍の前で裁きを受けた。
-列王記下25:2-7「都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年・・・都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた・・・王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った」。

2.捕囚の民の選び

・エルサレムに残留した人々は、自分たちこそ「残された者」であり、バビロン捕囚民は「罪を犯したから捕囚となった、もう仲間ではない」と言い始めていた。彼らは捕囚民の資産は自分たちのものだとして横領しようとしていた。
-エゼキエル11:14-15「主の言葉が私に臨んだ。『人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている』」。
・それに対して主は言われた「彼らは遠い異国に追放されたが、それは彼らを残りの者として残すためだ。私は彼らのための聖所となり、彼らはやがてエルサレムに戻り、都の忌むべきものを取り除くであろう」と。
-エゼキエル11:16-18「主なる神はこう言われる『確かに、私は彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかし私は、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。私はお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く』」。
・エルサレムの人々は自分たちこそ主の民であり、バビロンの捕囚民は「主から遠く離れている」と切り捨てていた。しかし主の栄光はエルサレムを去り、バビロンの捕囚民と共におられた。主は悩み苦しむ者と共におられ、神殿に制約される方ではないとエゼキエルは知らされた。ここに主の恵みの逆説がある。イエスの福音を受け入れたのは、祭司や律法学者ではなく、罪人と卑しまれていた取税人や娼婦たちであった。また神に一番近いはずのユダヤ人はこれを拒否し、神から「遠く離れた」とされた異邦人はこれを受け入れた。ここに信仰の逆説がある。
-マルコ12:10-11「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。
・同じ体験をしても、ある人はそれを「神からの試練」として受け入れ、別な人は「一時的な災い」として忘れ去ろうとする。前者にとって試練は祝福となるが、後者にとって試練は滅びとなる。エゼキエルは自分の見た幻を捕囚民に語り聞かせた。捕囚民の中には早期の帰還を夢見る人々もいたが、そのような幻想は砕かれなければならない。悔い改めないエルサレムの民は滅ぼされ、悲しみを知った捕囚の民が新しい民として帰国する。
-エゼキエル11:22-25「そのとき、ケルビムは翼を広げ、車輪もまた共に行った。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。霊は私を引き上げ、カルデアの方に運び、私を幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、私の見た幻は、私を離れて上って行った。私は、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた」。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2011年2月17日祈祷会(エゼキエル10章、主の栄光が神殿を去る)
カテゴリートップ
エゼキエル書
次
2011年3月3日祈祷会(エゼキエル12章、捕囚のしるしを示せと命じられる預言者)