すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年2月9日祈祷会(エゼキエル9章、エルサレムに対する刑罰)
1.破壊の使者が呼ばれる

・エゼキエルは幻の内にエルサレム神殿に連れ行かれ、そこで天の女神やエジプトやバビロンの神々を拝んでいる人々を見た。彼らは「主はこの地を捨てられた」として、偶像の神を拝んでいた。その人々に対して主は、「私は彼らを憐れまない」と言われ、破壊する道具を持った六人の使者を呼ばれた。彼らは北から(バビロンの方向)から来た。
-エゼキエル9:1-2a「 彼は大声で私の耳に語った『この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ』。すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか」。
・しかしその中の一人は亜麻布をまとい、腰に祭司の筆入れをつけていた。正しい者、罪を悔い改めている者に印をつけ、彼らを滅びから救うためである。印=へブル語タウ、召琉が正しい者の額につけられる。
-エゼキエル9:2b-4「そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた『都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ』」。
・破壊を命じられた者たちは神殿の中庭にいた長老たちから殺戮を始める。神の裁きは神殿から始まる。神殿の祭司こそエルサレム救済に第一に働くべきなのに、彼らは聖所に背中を見せて太陽を拝んでいた。その罪が罰せられる。
-エゼキエル9:5-7「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、私の神殿から始めよ・・・神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ」。
・神殿は神がおられる故に聖なる宮になる。主がおられなければそこは単なる場所、単なる建物にすぎない。神の宮とは私たちが礼拝を捧げる場所であり、主がおられれば捕囚の地もまたエルサレムになるし、主がおられなければエルサレム神殿も聖地ではなくなる。当時の人々はエルサレム神殿がある限り、自分たちは安泰だと盲信していた。
-エレミヤ7:2-11「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない・・・私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り、私にもそう見える、と主は言われる」。

2.しかし救いのしるしをつけた者は救われる

・エゼキエルはその殺戮を目撃して叫ぶ「主よ、エルサレムに残された者を全て殺されるのですか」。主は言われる「エルサレムの罪はあまりにも大きい。彼らの行いの報いを彼らに帰す」。
-エゼキエル9:8-10「彼らが打っているとき、私はひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った『ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか』。主は私に言われた『イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、主はこの地を見捨てられた。主は顧みられないと言っている。それゆえ、私も彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、私は彼らの頭上に帰する」。
・すべての者が殺されるのではない。必ず、残りの者は残される。エゼキエルはそれを確認する。
-エゼキエル9:11「そのとき、亜麻布をまとい腰に筆入れを着けている者が報告して言った『私は、あなたが命じられたとおりにいたしました』。
・ヨハネ黙示録における審判においても、救われるべき者の額に刻印されるまでは裁きは始まらないと記される。
-ヨハネ黙示録7:2-3「私はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない』」。
・では正しい者が残され、災いにあった者は罪人なのか。刻印の記事を杓子定規に解釈すると、私たちは予定論の罠に陥る。残りのものは神の憐れみであり人の正しさではない。人はみな罪びとであり、滅びに予定されている。
-ルカ13:4-5「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。
・17世紀のドイツは30年戦争を体験した。当初はカトリックとプロテスタントの宗教戦争であったが、やがては没落する神聖ローマ帝国の領土争奪戦になって行く。主に戦ったのは傭兵たちで彼らは十分な補給もないままに暴行・殺人・略奪を働いた。そのため、ドイツの地は荒廃し、人口は1/3に減った。これも神の裁きなのだろうか。わからない。

*エゼキエル9章参考資料:幻の裁き(2002年1月20日説教、ダニエル書7:1-18から)

・ダニエル書は黙示の書である。黙示、幻を通して未来を啓示される。7章で、ダニエルは、海から四頭の獣が現れる幻を見た(3節)。最初の獣は鷲の翼をもつ獅子(4節)、当時の人々は、バビロニヤ帝国のシンボルが翼を持った獅子であることを知っていた。だから、この獣はバビロニヤを指すと人々は理解できた。次に現れたのは口に三本の肋骨を加えた熊(5節)。残忍な征服者として知られたメデヤ帝国である。三番目は四つ翼と四つの頭を持つ豹(6節)。豹はペルシャ帝国の紋章だった。第四の獣は巨大な鉄の歯を持つ(7節)。圧倒的な軍事力で世界を制圧したギリシャのアレキサンダーで、十本の角がアレキサンダーの後継の王たちを指す。そして、最期の角の後にもう一本の小さな角が現れる(8節)。これが、アレキサンダーから数えて11代目のシリヤの王、アンティオコス・エピファネスである。ダニエルは、幻を通して、バビロニヤからシリヤまでの400年間にわたる世界の支配者の変遷を見せられた。バビロニヤとメデイヤが世界帝国としてその権勢を誇るが、やがてペルシャのクロス王が立ち、二つの国を滅ぼす。そのペルシャもギリシャのアレキサンダーに滅ぼされ、アレキサンダー帝国は、彼の死と共に四つに分裂する。その中でパレスチナの支配権はシリヤが握ったが、十一代目の王アンティオコス・エピファネスが今、権勢を誇って、ユダヤを統治し、迫害している。そのような状況の中で、ダニエルは幻を見た。
・ダニエルがこの幻を見たのは、紀元前164年ごろとされている。当時、ユダヤはシリヤの支配下にあり、シリヤ王アンティオコスの宗教迫害に苦しめられていた。アンティオコスは自分の植民地である小国ユダが自分に服さないのは、その宗教のためだと思い、信仰の中心であったエルサレム神殿の中に、自分の神であるオリンポスのゼウス像を建て、これを拝むように強制し、従わない者は処刑した。アンティオコスは聖書を燃やし、割礼を禁止し、ギリシャの神を拝むように強制した。文献によれば、禁止に逆らって幼児に割礼を施した母親を子もろとも殺し、その幼児の死体を母親の首にかけてさらすことさえした。
・この迫害の中で、ダニエルは神に訴える「あなたは何故、このような暴虐の振舞いを許されるのか、何時までこのような苦しみは続くのか」。そのダニエルの問いに答えて示された啓示が7章の幻である。最初に、荒れ狂う大海がダニエルに示される(2節)。この地上世界は、荒れ狂っている。ダニエルの仲間のある者は、「食物の故に身を汚し、聖なる契約を汚すよりは、むしろ死を選んだ」(マカベア第一1:63)。他の者は、アンティオコスに反乱を起こし、武力で抵抗した。ダニエルにとって地上世界は荒れ狂う混沌(カオス)の海であった。その混沌の海の中から、支配者たち、王たちが現れてくる。あるものは獅子、あるものは熊、別のものは豹、形は異なるが、いずれもその牙、その力で相手を制圧し、従わせる。それぞれの権力は一時期、勢威を誇るがやがて滅びる。バビロニヤは滅ぼされ、ペルシャもギリシャも今は滅んだ。地上の権力はやがて過ぎ去る。今ダニエルの目の前には、勝ち誇るシリヤ王アンティオコスがいるが、彼もやがて滅びる。幻はそれを示している。
・どのようにして、迫害者が滅びるのか、9節から場面が変る。天に王座が据えられ、「日の老いたるもの(神)」が裁きの座につく。獣(アンティオコス)は尊大なことを言い続けている(11節)。しかし、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて、燃え盛る火に投げ込まれた。また、「他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた」(12節)。地上の権力は、神が許して置かれる期間だけ、生き長らえる。全ての民とその統治者を支配しておられるのは神であり、権力者は「定めの時まで」支配を許される存在にしか過ぎない。今、地上で猛威をふるう圧制者、仲間を殺し、聖所を汚す暴虐者アンティオコスでさえ、絶対者ではなく、単なる人間にしか過ぎないことを告げられる。神を信じる時、すべての人間が、どのような権力者であれ、相対化される。そのとき、どのような圧制者、権力者も恐れるに足らぬ存在になる。
・これがアウシュビッツにおいて、ユダヤ人が見出した信仰である。彼らは強制収容所の中で、ダニエル書を読んだ。今、彼等の目の前に、民族を抹殺しようとするヒトラーとその配下のものがいる。彼は暴威をふるい、多くの仲間が殺され、今、自分たちも殺されようとしている。それにも関わらず、ヒトラーの上にも神の支配が厳然としてあり、「定めの時が満ちた時」ヒトラーは裁かれるであろうとダニエル書は告げる。そのとき、彼らは目の前の絶望的状況を越えた将来への希望を持つ。彼らはここで死ぬかもしれない。しかし、この死を超えて神は彼等を愛され、配慮される。彼らはこの信仰に立って、「シャローム」(神の平安がありますように)とお互いを祝福して、ガス室の中に入っていったと記録は伝える。
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