すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エゼキエル書  >  2011年1月27日祈祷会(エゼキエル7章、終末の時に何が起こるのか)
1.イスラエルの終りの時

・エゼキエル7章はやがて来るイスラエルの滅亡の預言だ。イスラエルは前597年にバビロンの支配下に入り、指導者たちはバビロンに連行され、祭司エゼキエルもそこにいた。彼は前593年に預言者として召され、国の滅亡を回避するため捕囚民に悔い改めを求めたが、それも虚しく、前586年イスラエルは滅ぼされる。7章の預言は国の滅亡を前に語られた。
-エゼキエル7:1-4「終わりが来る。地の四隅に終わりが来る・・・私は怒りを送り、お前の行いに従って裁き、忌まわしいすべてのことをお前に報いる。私は、お前に慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない・・・その時、お前たちは私が主であることを知るようになる」。
・当時の人々は神の王国イスラエルは不滅だと楽観視していた。捕囚民も捕囚はやがて終わると思っていた(エレミヤ28:2-4)。その人々に神の王国であっても背信した国は、神自らが撃たれるとエゼキエルは預言する。
-エゼキエル7:5-9「災いに続く災いが来る。終わりが来る。終わりが来る・・・この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。今や、私はお前に向かって憤りを注ぎ、お前に対して、わが怒りを注ぎ尽くす・・・私は慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。お前の行いに応じて私は報いる・・・そのとき、お前たちは知るようになる、私がお前たちを打つ主であることを」。
・その日には「買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな」と宣言される。裕福になって土地を買う者の喜びも、貧しくなって土地を売る者の悲しみも、終末の日には無意味になる。人々は捕虜となってはバビロンに移され、イスラエルにあった財産は全て強制放棄させられる。捕囚になった者がエルサレムに土地を持って何の意味があるかとエゼキエルは問う。
-エゼキエル7:11-13「王杖に花が咲き、傲慢の芽が萌え出た。不法が起こって、背きの王杖となった。彼らのものはひとつも残らず、群衆は絶える。彼らの騒ぎも残らず、嘆きの声すら絶える・・・買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。怒りが、国の群衆すべてに及ぶからだ。売る者がたとえ生き長らえても、売った物を買い戻すことはできない。すべての群衆に対する審判の幻が撤回されないからだ。罪のゆえに、だれひとり命を保つことはできない」。
・敵が来襲しても誰も戦わない。外には剣があり、中には疫病と飢饉があり、人々は生きる希望を失っていたからだ。
-エゼキエル7:14-18「角笛が吹き鳴らされ、準備がすべて整っても、だれひとり戦いに出る者はない・・・外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に、町にいる者は、飢えと疫病が滅ぼす。たとえ、逃れた者たちが逃れて山に行っても、皆、おのおの自分の罪のゆえに、谷間の鳩のように嘆く。手は力なく垂れ、膝は水のように力を失う。彼らは粗布を身にまとい、戦慄が彼らを包む。どの顔も恥を表し、髪はみなそり落とされる」。

2.私たちにとっての終末

・エゼキエルの描いた日は「イスラエルの滅ぶ日」だ。その日を「私たちが死ぬ日」とすれば、それは「私たちの日」になる。死は私たちに財産を強制放棄させる。死を前にすれば全てのものの価値は変わる。イエスが言われた通りだ。
-ルカ12:16-21「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。
・エゼキエルは終末時には金銀も何の役にも立たないと述べる。金銀があっても買える食物がないからだ。株券や国債等の有価証券を英語でSecuritiesという。確かなもの、安全なものとの意味だ。しかし危機の時代には有価証券は紙くずとなり、人々は金を買い求める。その金銀さえ無意味になる時が来るとエゼキエルは預言する。
-エゼキエル7:19-21「彼らは銀を外に投げ捨て、金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も彼らを救うことができない。銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず、腹を満たすこともできない。かえってそれは彼らをつまずかせ罪を犯させた。彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い、憎むべき忌まわしい偶像を造った。それゆえ、私はそれを汚れたものとし、戦利品として、他国人の手に渡し、分捕物として、地上の悪人たちに与える。彼らはそれを汚す」。
・イスラエルの破壊は人々の罪のゆえに起こる。神は人々の惨状を放置され、人々の信を置く神殿も破壊され、人々に足かせをはめてバビロンにつれて行くための鎖を用意せよと命じられる。神の怒りは歴史への不介入としてなされる。
-エゼキエル7:22-24「私は彼らから顔をそむける。彼らは私の宝を汚し、乱暴な者が襲いかかって汚す。鎖を用意せよ。この地は流血の罪に満ち、都は不法に満ちているからだ・・・私は力ある者の誇りを挫く。彼らの聖所は汚される」。
・「最後の時、預言者は沈黙し、祭司は助言できず、王は嘆き、貴族は恐れ、民は震える。そのことを通して彼らは「私が主であることを知るようになる」とエゼキエルは預言する。
-エゼキエル7:26-27「災いに災いが続き、悪い知らせが相次いで来る。彼らが幻を預言者に求めても得ず、律法は祭司から失われ、助言は長老たちから失われる。王は嘆き、君侯たちは恐怖にとらわれ、国の民の手は震える。私は彼らの行いに従って報い、彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは私が主であることを知るようになる」。
・「私が主であることを彼らは知るようになる」、救いは裁きを通して来る。苦難を通して人々は神を求め、神はそれに答えて下さる。V.フランクルがアウシュビッツで出会った老婦人もそうであった。
-V.フランクルは「夜と霧」で、アウシュビッツで出会った老婦人について記す『私はヒットラーには感謝しております。あのままウィーンで過ごしていたら、私は高慢ちきで、憎まれて、つまらない人生の閉じ方をしたと思います。私はアウシュビッツに来たおかげですばらしい発見をしました。それは人間の幸せな死に方はものによって守られるということではありません。私はアウシュビッツで天国を見つけました』。そして、彼女は収容所に立っている一本の木を指さして『ほら、あそこに永遠が立っている』 と言った」。
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