すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年1月26日祈祷会(詩編81篇、イスラエルが私の道を歩む者であれば)
1.仮庵祭の時の祝祭歌

・詩編81篇は仮庵の祭で詠われた祝祭歌であろうと言われる。毎年7月の新月から満月にかけて祝われる仮庵祭は、本来は収穫祭であったが、出エジプトを経験した民は、祭りを荒野の旅(仮庵生活)を思い起こす祭りに変えて行く。
-詩編81:2-4「私たちの力の神に向かって喜び歌い、ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし、琴と竪琴を美しく奏でよ。角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、私たちの祭りの日に」。
・イスラエルにおいて祭りは単なる祝い事ではなく、また音楽や儀式を行う時でもない。それは主の恵みを想起する時であり、主に従うことを改めて誓約する時であった。
-詩編81:5-6a「これはイスラエルに対する掟、ヤコブの神が命じられたこと。エジプトの地を攻められた時、ヨセフに授けられた定め」。
・イスラエルの信仰の原点は出エジプトの出来事である。イスラエルはエジプトでは奴隷として重い苦役を担い、苦しみ、救いの叫びを主に向かって挙げた。主はその叫びを聞き、彼らの「肩の重荷を取り除き、かごを手から取り去って下さった」。約束の地に向かう荒野においても主は稲妻で民を導き、食べ物と水を与えられた。
-詩編81:6b-8「私は思いがけない言葉を聞くことになった『私が、彼の肩の重荷を除き、籠を手から取り去る。私は苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した』」。
・主はイスラエルと契約を結ばれる。その中核は「私以外を神として拝むな」という偶像礼拝の禁止であった。
-詩編81:9-11「私の民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、私に聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。私が、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、私はそれを満たそう」。
・偶像礼拝こそ、人間の罪の原点であり、それは「神を神としない」、「自分が神になろうとする」人間の本源的な欲望である。アダムの犯した罪も、「神になりたい」という欲望の結果であった。その結果人間世界に罪と死が始まった。
-創世記3:4-6「蛇は女に言った『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。

2.イスラエルが私の道を歩む者であれば

・民はシナイの山で、「私たちは従います」と誓約した。しかし民は約束の地に入ると主を忘れ、自分たちの楽しみを追い求め、偶像の神を拝した。人間は豊かになると神を忘れ、苦難にあえば再び求めることを聖書記者は指摘する。
-申命記31:20-21「私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れるとき、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、私を侮って私の契約を破るであろう。そして多くの災いと苦難に襲われるとき、この歌は、その子孫が忘れずに唱え続けることにより、民に対する証言となるであろう。私は、私が誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである」。
・祭りでは民の背信の歴史が祭司により朗読される。イスラエルは常に頑なであった。それゆえ主は私たちの国を滅ぼされたとの理解がここにある。この詩編が書かれたのは第二神殿時代、捕囚からの帰還後であろう。
-詩編81:12-13「しかし、私の民は私の声を聞かず、イスラエルは私を求めなかった。私は頑な心の彼らを突き放し、思いのままに歩かせた」。
・神の裁きは、「人を思いのままに歩ませる」(81:13)という形で為される。ちょうど、親が聞き分けのない子を思いのままに振舞わせ、彼らが苦難に陥った時に初めて助けの手を伸ばすように、である。パウロもまた人間に対する裁きが「神の放置」という形でなされると理解した。その結果は滅びである。
-ローマ1:21-28「(彼らは)神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました・・・彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。
・祭司は民に「主に従うか、主に背くか」の決断を迫る。「私の民が私に聞き従い、イスラエルが私の道に歩む者であったなら」という神の言葉を聞けと祭司は聴衆に迫る。
-詩編81:14-17「『私の民が私に聞き従い、イスラエルが私の道に歩む者であったなら、私はたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに』。主を憎む者が主に屈服し、この運命が永劫に続くように。主は民を最良の小麦で養ってくださる『私は岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう』」。
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